「いてもかまわない」というサーカスの体質

サーカスの公演は二カ月に一度のペースで「場越し」をする。だから、小学校や中学校に通う子供たちは、年に少なくとも6回は転校しなければならない。出席日数が足りなくならないようにするため、次の公演地への移動日であっても、彼らはランドセルを背負って学校に行き、大学ノートに在籍証明を書いてもらっていた。

サーカス育ちの子供たちにとって、それはただの日常の一コマに過ぎなかった。短い間に出来た友達やクラスメートとの別れは、「バイバイ」の一言で終わる。

しかし、母親となってサーカスで子育てをしていると、その自明だった日々がまた違ったものに見えてくる。少しずつ長男は大きくなり、5年後に次男が生まれた。いつしか長男は丸盆の下にちょこんと座って、他の子供たちがそうしてきたように、母親のガネの演技を眺めるようにもなった。そんなとき、子供の目に映る世界について彼女は思いを馳せるようになった。

サーカスは人の出入りが激しい場所だ。公演地が変わる度に若いアルバイトが雇われ、様々な業者が絶えずやってきては作業し、芸人や裏方のスタッフも増えたり減ったりしている。美一さんの14年間のサーカス暮らしにおいて、僕と母もそのようにやってきて、過ぎ去っていった親子だった。

そのなかで貫かれている「いてもかまわない」というサーカスの体質は、言い換えれば「来る者は拒まず、去る者は追わず」の世界であった。人々が入れ替わりながら、明日、また明日と舞台は続き、美一さんはガネを渡り、一輪車に乗る。大きな事故があり、キグレサーカスでは二人の芸人が死んだ。それこそ「家族」を亡くした哀しみがテント村を覆っても、翌日になれば舞台は続けられなければならない。

駅にまで見送りに来た人もいなかった

風邪を引いて体調が悪いとき、「今日はサーカスが休みならどんなにいいだろう」と思うこともある。だが、どんなときであっても、サーカスでは淡々と毎日がサーカスであり、舞台と稽古があり、いつもの「日常」が続いていく。

「人数が増えようが減ろうが、誰が生きようが死のうが……。サーカスというものは変わらずに動いていく。そんなふうにして14年間も同じ日々を繰り返していると、『記憶』というものも何だかあやふやになっていく。誰かが入ってきたけれど、どこかでいなくなった。サーカスにやってきた誰かの思い出も、そんなものとして淡く胸に残るだけになっていくんだよね」

そうして1992年の宇都宮公演のとき、長男の小学校への入学をひかえて、美一さんたちがサーカスを離れる番がやってきた。

その別れは14年という歳月の終わりにしては、あまりにあっさりとしたものだった――。美一さんはそんなふうに振り返る。

幼い二人の息子と駒一さん、そして、自分……。

宇都宮公演では新幹線の宇都宮駅のすぐ近くに大天幕を張った。だから、テント村を出てしまえば、あとは東北新幹線に乗って美一さんの故郷の弘前に向かうだけだった。

テント村の中では送別会や別れの挨拶をする時間があった。だが、熱い抱擁を交わすわけではなく、駅にまで見送りに来た人もいなかった。サーカスを出たらそれで終わり。そんな感じの別れであった。