普通の国会議員が日夜「暴露」を行っている

そもそも、国会で行う「暴露」とは、プライベートを動画で面白おかしくしゃべる、という筋合いのものではない。時の権力が本来国民に公開すべきなのにしていない政策立案の過程や、積極的に隠している不祥事などを、国会での質疑という「表の場」で白日のもとにさらし、国民の利益につなげることだ。

最近で言えば、安倍政権の「桜を見る会」をめぐるおかしな予算支出は、2019年11月に共産党の田村智子氏が地道な調査をもとに追及したことで火がついたし、現在国会で大きな焦点が当たっている放送法の「政治的公平」問題は、立憲民主党の小西洋之氏が質疑で総務省の内部文書を示したことから、ここまでの注目を集める事態になった。

「暴露系」の手など借りなくても、国会では連日「ごく普通の国会議員たちが地道に日常の仕事を積み重ねて」多くのことを明らかにしているのだ。

そんな国会の日常をあざ笑っておきながら、ガーシー氏はいざ自分が国会議員になると、せっかく得られた議員としての力を、国民のために使いこなすことをしなかった。

病気やけがでもないのに、仕事場である国会に足を踏み入れることすら拒むような議員を、国民の税金で養う余裕はない。国民のために働く気のない議員に国民の税金がつぎ込まれ続ければ、民主主義の価値は確実に毀損されてしまう。

ガーシー氏に国会議員を名乗る資格などない、と考えることに、筆者は何の異論もない。

「除名」という最も重い懲罰のハードルを下げた

にもかかわらず若干の危惧を覚えるのは、これだけ日本の社会に政治不信がまん延してしまったなかで「あの政治家は国会議員を名乗る資格がない」という声が、安直に「そんな国会議員は資格を奪われて良い」という声に結びつき、さらにそのハードルが下がってしまうことだ。

ガーシー氏の問題は「国会議員の除名」という、その存在すらほぼ忘れられていた懲罰の存在に、再び光を当てることになった。各種報道で「現憲法下では72年ぶり3人目」と繰り返されれば、どうしても「前の2人」が注目されることになる。

1951(昭和26)年に除名処分を受けた、共産党の川上貫一衆院議員のケースでは、サンフランシスコ講和条約に向けて国内に「単独講和か全面講和か」の論争があった当時、衆院本会議の代表質問で「全面講和の締結と占領軍の撤退」を求めたことが「国会の品位を汚した」と批判された。川上氏もまず議場での陳謝を命じられたが、応じなかったため除名処分となった。

除名に至るかどうかはともかく、何かにつけ政権批判の声を封じようとしている昨今の国会でも、ありそうな光景に思えたのは筆者だけだろうか。