まるで宗教的指導者の説教のような式辞

1953年(昭和28年)4月11日の入学式式辞には、キリスト教信者としての矢内原忠雄がそれまでになくはっきりと前面に表れている印象があります。入学試験を受けながらたまたま合格できなかった多くの受験生に思いを馳せながら、彼は次のように語っています。

私はそれを運命と呼ばず、神の意思といふ。運命といふ考は消極的なあきらめを人に与へるに止るが、神の意思といふ思想は、自己の置かれた境遇の中に人生の積極的な意味を認める。逆境に立つた人は、その逆境の中に神の意思を認め、ただに従順によく忍ぶだけでなく、逆境に立たないではわからない人生の意味と進路を見出すことが出来る。順境に立つた者もまた、その順境の中に神の意思を認め、自ら誇らず、高ぶらず、他人を見下さず、謙遜な心をもつて、自己の責任と使命を自覚するのである。

文章にすればわずか数行のうちに、「神の意思」という語句が4回も繰り返されていることが、どうしても目を引きます。不合格者からすれば、こんな言葉をもちだされても簡単に納得できるものではないでしょうが、これはあくまで入学生に向けられたメッセージですから、真意は合格者たちの傲慢ごうまんと慢心を戒めるところにあったのだと思います。

しかしそれにしても、国立大学の入学式という場でここまで宗教的な色彩の濃厚な言葉が頻出しているのは、やはり異例のことと言わなければなりません。これは大学の最高責任者というよりも、むしろ宗教的指導者の説教に近いような気がします。

決して学問の水準を落としてはならない

一方この式辞では、つい2週間前の卒業式で指摘されていた旧制と新制の違いが、さらにはっきりした言い方で述べられています。「新しい学制の下においては、大学の門は前よりも広い範囲の学生に開放されたが、新制高等学校は旧制高等学校とその内容において変化し、卒業生の学力および年齢において低下を見たのである」、「大学は、旧学制下におけるよりも比較的に学力が未熟であり、人間としても幼い学生を迎へいれることになつた」──これは矢内原総長の偽らざる実感であったと思われますが、新入生たちの耳にはどう聞こえていたのでしょうか。

けれども新制大学には新制大学ならではの教育内容を新たに構築することが必要であり、けっして学問の水準を落としてはならないというのが、総長の言いたいことでした。式辞の最後を締めくくる次の一節には、そうした大学人としての使命感がキリスト者としての倫理観とひとつに溶け合っていて、ある種の感動を呼び起こします。

「汝の車輪を星につなげよ、」といふ言葉のある通り、諸君の生涯の歩みを真理の星に連結し、真理によつて支へられ、真理と共に進展し、真理と共に永遠の光輝を放つものたらしめよ。たとへ平凡な生涯であつても、これを高貴なる目的につなぐとき、それは永遠の光輝ある一生となるのである。

諸君の学ぶところを、諸君自身の利益のために用ひず、世のため、人のため、殊に弱者のために用ひよ。虐げる者となることなく、虐げられた者を救ふ人となれよ。諸君の生涯を高貴なる目的のためにささげよ。

社会に出て高貴なる目的のために自己の学問をささげようとする者は、「人生において高貴なるものとは何であるか」を、づ知らなければならない。諸君の大学生活をば、この「高貴なる人生」の探求たらしめよ。諸君の若き日においてこれを見出すことは、専門的知識の断片を集積するにまさりて、遥かに重要である。私は諸君が、本学に学ぶ数年間を空費せざらんことをこいねごうて止まないのである。