「蓮台にのらんまでは……」
第九条のはじめに記されている唯円の念仏や浄土に対する疑いについて、親鸞は、そうした心が生じていることこそが、本願によって救われてゆくことを示しているのだ、だから安心して念仏をすればよい、と逆説的とも感じられる説明をしている。
一方、『歎異抄』と時代を近くして成立した『一言芳談抄』に、つぎのような法然の言葉が記されている。私は、最近、以下に紹介する法然の言葉と、『歎異抄』第九条とをしばしば比較することがある。親鸞の逆説的な説明と、法然の日常の言葉遣いを大事にする説明と、二つながらあることが「本願念仏」の強みではないか、と考えはじめている。『一言芳談抄』のなかの話とは、つぎのとおり。現代語訳でまず紹介しよう。
法然上人は普段、つぎのようにおっしゃっていた。「ああ、今度こそ往生をしたいものだなあ」、と。この言葉を聞いていた乗願房が、法然上人に尋ねました。「法然上人でも往生については、このように、確信のないお気持ちになられるのですか。そうであるのなら、私たちが往生について不安げなのも、当たり前なのですね」。そのとき、法然上人はちょっとお笑いになって、つぎのようにいわれたのです。「浄土の蓮の台に乗るまでは、こうした不安げな気持ちがなくなるということはないのですよ」、と。
原文を参考のためにあげておこう。
法然上人つねの御詞に云く、「哀、今度しおほせばやな」と。其時乗願房申さく、「上人だにもか様に不定げなる仰の候はんには、まして其余の人はいかヾ候ふべき」と。其時上人うちわらひて、の給はく、「蓮台にのらんまでは、いかでか此思ひはたえ候ふべき」云々。
往生をめぐって不安が生じるのはどうしようもないこと
この一節について、17世紀に、ある学僧がおよそつぎのような内容の注をつけている。「決定往生の道理」(阿弥陀仏がその名を称する者を必ず浄土に迎えるという約束)に対しては疑いがないのだが、そうはいっても、必ず浄土に生まれるという確信は、実際に浄土に生まれるまでは簡単には得られるものではなく、疑問や不安が続くのであり、文字どおり浄土のシンボルである蓮を見るまでは、いぶかしさが残り続けるものなのだ、と。
法然の嘆息は、「決定往生の道理」に対する疑いからなのではない。「凡夫」の身としては、浄土に生まれるという経験がないから、死後の往生をめぐって、疑いや不安が生じるのはどうしようもない、ということなのである。
信心・信仰・宗教についての勝手な思い込み
法然のこの感慨が大切なのは、阿弥陀仏の本願がもつ道理に納得する気持ちがある反面、実際に浄土に生まれるのかどうかについて、不安に思う気持ちもあるという、一見矛盾した気持ちが、二つながら肯定されている、という点なのである。
つまり、念仏者だから、浄土に生まれるという確信がみなぎるはずだというのは、「思い込み」なのである。実際は、本願の意味に納得する気持ちと、本当に浄土に生まれることができるのかどうか、という不安な気持ちが、二つながら同時に存在するのが「凡夫」なのである。
私たちは、ややもすれば、本願を信ずるようになれば、わが身が浄土に生まれることについてなんの疑いも生じなくなる、と思いがちだ。だが、くりかえすが、それはどうやら、「思い込み」にすぎないのではないだろうか。私たちは、信心・信仰・宗教については、勝手な「思い込み」をもちすぎているように思われるが、いかがであろうか。