確信と不安に揺れ動く
もう一度、『歎異抄』第九条の、親鸞の答え方を振り返ろう。親鸞の説明の面白いところは、浄土に生まれることについて、疑いや不安があればあるほど、浄土往生が決まっている証拠だと、逆説めいている点であろう。
つまり、疑いや不安は煩悩のはたらきなのであり、煩悩の強い私たちのためにこそ、阿弥陀仏の本願があるのだ、だから安心してよい、というのである。
親鸞の答え方を、法然の言葉に照らすと、そもそも念仏の暮らし自体が、喜びと同時に不安や疑問の二極を揺れ動くものなのだ、ということがよく分かる。親鸞も、『教行信証』という主著のなかで、自分は、浄土に生まれて必ず仏になることが決まっている人の仲間に入ることを喜ばず、本当の悟りに近づくことを楽しまない、と慚愧の気持ちを記している。
このように、道理に対する確信と、未経験なことに対する不安という、二極を揺れ動くのは、私たちが「凡夫」、つまり、煩悩に縛られた存在であるからにほかならない。「凡夫」は自分の考えが正しいと信じこんでいるから、自分の考えだけでは容易に受け入れられない「阿弥陀仏の物語」は、ややもすれば、おとぎ話になってゆくのである。
凡夫のための仏教
それをふせぐのは、自分には「阿弥陀仏の物語」のほかに、本当にこの人生を乗りきってゆく手がかりがあるのだろうか、と自己吟味するしかない。とりわけ、今の自分のあり方をそのまま認めた上で、この未完成な自分が真実にして完全な存在になる、そのような道がほかにあるのか、と尋ねてみることである。
この点、法然が、往生についての確信は「蓮の台」に乗るまでは生まれない、と教えていることには、大変共感できるのではないか。しかも、「少しお笑いになって」(「上人うちわらひて」)というのがうれしい。法然の説いた「本願念仏」が「凡夫」のための仏教であることを、端的に示した語録だといえよう。
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