日常の暮らしの方が大切

また、唯円の「本願念仏」への疑問も、浄土といった考え方や、そのための方法である念仏という「行」については、関心があっても、日常の考え方をすべてなげうって、そうした考えや、「行」に打ち込むほどにはなれない。日常の暮らしの方が大切なのである。

親鸞が教えるのは、そのような日常の暮らし方、常識を否定して「本願念仏」の暮らしがあるのではなく、「煩悩」の身のままで、日常の暮らしはそのままで、仏になる道があるということなのである。もう少し、第九条を読んでみよう。

私たちは、はるかな昔から、輪廻りんねの世界を経巡ってきました。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅はもとより、人・天の世界は、すでに経験してきた世界ですから、故郷のような親しみを感じますが、一度として生まれたことのない浄土は、およそ恋しいとも思わないのです。まことに、私どもを支配している「煩悩」は、激しくも盛んなのです。

ただ、この世を名残惜しいと思っても、縁が尽きて、仕方なく生涯を終わるときに、はじめて、浄土へ参ることになるのです。急いで浄土へ行きたい、というような心のない者を、阿弥陀仏はとくに憐れんでくださるのです。それを思えば、阿弥陀仏の慈悲と誓願は頼もしく、私どもの往生は、決まっているのです。

天にも躍り上がり、地にも跳び上がる喜びがあり、急いで浄土へ行きたい、ということでは、かえって「煩悩」がないのではないか、と不審に思われるのではないでしょうか。

僧侶
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煩悩の克服が目的ではない

大切なことは、「本願念仏」は、「煩悩」の克服を目的にしていない、という点にある。エゴの要求には、浅深の違いはあろう。だが、エゴの要求なしに生きることはありえない。となれば、エゴのありようはそのまま認めて、しかも仏になる道を求めるしかない。

その道こそが、「本願念仏」なのである。喜びの心がわき上がろうがわき上がるまいが、あるいは、浄土に生まれたいと願おうが願うまいが、ただ称名するのみなのである。その称名のみ、という教えが身に染みてありがたく感じられるのは、自分のエゴの深さに気づいたときであろう。それまでは、人間はなんでも努力さえすればできる、という「思い込み」に支配されている。だが、人はなにもできないことの方が多い、ということが分かると、阿弥陀仏の本願という「大きな物語」の力が、なくてはならないものとなってくる。