今年、親鸞の生誕850年を迎える。宗教学者の阿満利麿さんは「親鸞が教えるのは、日常の暮らし方、常識を否定して『本願念仏』の暮らしがあるのではなく、『煩悩』の身のままで、日常の暮らしはそのままで、仏になる道があるということです」という――。

※本稿は、阿満利麿『「歎異抄」入門』(河出新書)の一部を再編集したものです。

念仏しても喜びが生まれない

『歎異抄』の第九条では、唯円が親鸞につぎのように質問する。

親鸞
親鸞(画像=Kosigrim/PD-user/Wikimedia Commons

私は、念仏をしても、躍り上がるような喜びの心は、なかなか生まれてきません。また、急いで憧れの浄土へ行きたいという気持ちもないのです。いったい、これはどうしたことなのでしょうか。

すると、親鸞はおよそ、つぎのように答える。

私も、同じような疑いをもって、今にいたっています。あなたも同じだったのですね。よくよく考えてみると、阿弥陀仏に救われるということは、経典に説かれているとおり、天にも躍り上がり、地を飛び跳ねるような喜びに包まれるはずの出来事なのですが、それが生じない。しかし、そのことこそ、かえって往生が定まっている証拠だと思います。

理由を申しましょう。喜ぶべき心を抑えているのは、「煩悩」の仕業なのです。阿弥陀仏は、このような、「煩悩」のとりこになっている人間のことをよくご存じであり、救済の対象を「煩悩」に縛られた「凡夫」に絞っておられるのです。

念仏をするようになっても、素直に、教えのとおりに喜びの心に包まれることがない私たちのために、阿弥陀仏の悲願はあるのです。そうと分かれば、阿弥陀仏の本願がいよいよ頼もしく思われるではありませんか。

親鸞は、さらに言葉を重ねる。

浄土へ急いで行きたいという心が生まれず、ちょっと病気をしただけでも死ぬのではないか、と心細く感じられるのも、「煩悩」のせいなのです。

「煩悩」とは「エゴイズム」

こうなると、「煩悩」とはなにかをはっきりさせる必要があろう。「煩悩」とは、普通は「欲望」といわれることが多いが、「欲望」がなければ人は生きてゆけないから、もう少し厳密に考えた方がよいと思う。そのヒントは、日常で使う「子煩悩」という言葉にある。「子煩悩」は、普通以上に子供をかわいがる親のことをいうが、そこには、親自身の自己愛が子供に投影されていることが多い。子供からすれば、迷惑な干渉とも受けとられる一面があるのだ。

つまり、「煩悩」とは、今日風にいえば、「エゴイズム」(自己中心)が近いだろう。なにごとにつけても自己の都合が優先され、自己満足が求められる状況、といってもよい。人が生きてゆく上で不可欠の諸々の欲望が、自分の都合に合わせてときに過度になる、という状態、それが「煩悩」の内容なのではないか。

あるいは、自分の考え方、価値判断を重んじて、ほかの考え方を受け入れられない状態をいう場合もあろう。いずれにせよ、絶えず「自己」(エゴ)の都合を意識し、自己を拡大させたいという要求が「煩悩」の内容なのである。その意味では、死は一番恐ろしいことになる。大切な「自己」(エゴ)が消えてなくなるのであるから。