病院で検査を受けた結果、顔面の神経と血管が接触する難病「顔面けいれん」だとわかった。医師からは「この病気で死ぬことはない」と言われたそうだが、常にビクンッ、ビクンッと頭のなかで脈が響き渡り、顔面がけいれんする耐えがたい症状だった。
少年時代から挫折を知らず、「これまでも、これからも、なにもかもうまくいくはずだ」と信じて疑わなかった青木さんの人生は、ここから一気に暗転する。
割れるような頭痛、何度も死にたいと思った
1999年、大学院進学を諦め、父親の会計事務所に入社した。しかし症状は酷くなるばかりで、顔がどんどん歪んでいく。25歳の時に結婚し、翌年、子どもが生まれたこともあり、青木さんは開頭手術を受けることを決めた。
「身体が動かないわけじゃないし、会計事務所でできることもあったけど、なんか、生きてる感じがしなかったんです。もう、ここで勝負をかけるしかないと思いました」
手術によって、病気の症状は治まった。想定外だったのは、術後、思うように身体を動かせなくなり、車イスが必要になってしまったこと。そのうえ、開頭手術の影響か、顔面けいれんとは別の激しい頭痛に襲われるようになった。
もとのように身体を動かすためには、リハビリをするしかない。手術をした病院からリハビリ専門病院に移り、割れるような頭痛を抱えながらのリハビリが始まった。それは、想像を絶する苦しさだった。
いつまでこれが続くんだろう……ある日、病院のベッドに寝ていた青木さんは、天井を見ながら思った。「死にたい」と。でも、死ねない。だって、身体が動かないから――。
その日以来、必死にリハビリに臨むようになった。「身体が動くようになったら、飛び降りよう」という決意を秘めた、「死ぬためのリハビリ」だ。
しばらくすると、その効果が表れ始めた。少しずつ手足の自由が利くようになると、どこからか前向きな気持ちが湧いてきた。結婚して間もないし、生まれたばかりの子どももいる。いつの間にか、「死ぬためのリハビリ」は「生きるためのリハビリ」に変わっていた。しかしそれは、新たな戦いの幕開けに過ぎなかった。
つらい時期も手放さなかっためだか
車イスなしで歩けるようになって退院した後も全快にはほど遠く、会計事務所に戻るのは難しかった。自宅で療養していると、病院では意識しなかったことを考えるようになった。それぞれの職場で仕事に励んでいる地元の仲間たちと、なにもできない自分を比べてしまうのだ。