選手全員が丸坊主になった意味

何より切ないのは、選抜出場が決まった日に、東海大菅生の選手全員が丸坊主になったことだ。

投手の発案で、部室でお互いにバリカンと剃刀で頭をそり上げたとのことだが、これは彼らのどんな「気持ち」を意味しているのだろうか。

日本では、一般的に「丸坊主になる」は「反省して出直す」ことを意味している。だとすれば、彼らは「何かを反省して」丸坊主になったのだろうか。

暴力沙汰を起こしたのは若林弘泰監督であり、彼らは被害者のはずだ。彼らが「反省する」筋合いはないはずだ。

社会に対する説明責任があるのは学校側であり、生徒たちではない。学校側は監督、部長のしっぽ切りに続いて、生徒を批判の矢面に立てた、ということにならないか。

何に対してかはわからないが「反省しましたので許してください、甲子園に行かせてください」と言ったことにならないか。

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誰か止める大人はいなかったのか

「坊主頭」は日本社会では、特別のサインを世間に送る。

一つは「ユニセックス」つまり性を超越し、煩悩を振り払うということだ。もう一つは「遁世」、俗世を離れて隠遁することだ。僧侶が坊主頭になるのは、まさにこういう意味がある。

元気盛りで異性の目も気になり始めた高校生たちに、僧侶と同じ頭をさせるのは、どういう意味があるのか。

また、つるつるに反り上げられた高校生たちの姿を見て、世間はどんな反応をすると思ったのか。

もちろん「坊主頭」を「すがすがしい」「高校生らしい」と感じる人々はまだたくさんいる。「そこまでして甲子園に出たいんだな、潔い覚悟だ」と思う人もいるだろう。

しかし一方で「ブラック校則」や「ブラック部活」が世間の大きな関心を集めている。学校側が一方的に髪型や服装を強制するのは「人権侵害」だという声が、日に日に強くなっている。そういう流れに逆行した動きだと見られても仕方がない。

選手たちは甲子園大会の出場前にはそろって坊主頭にするのを恒例にしていたと言うが、昨今の価値観の変化、そして何より東海大菅生に注目が集まっているこの状況を鑑みれば「今はやめておけ」と言う大人はいなかったのか。