世界を壊すのは、悪意の存在ではなく、善意の偏在
私が言論人としてやっているのは結局のところ「なぜイエスや親鸞が、世間から見捨てられた『卑しい人』にこそ愛情深く接したのか」の理由を21世紀になってふたたび説明しているに過ぎないだろう。
イエスや親鸞はもうこの世にはいない。だからこそ、かれらがやろうとしていたこと、伝えようとしていたことを――もちろんかれらの営みを完全に再現することは凡人のわれわれには不可能であるとしても――私たちも言葉にして、可能なかぎり引き継がなければならない。
私たちはおめでたいことに、自分では心からの「善行」のつもりで、助けたい者だけを助け、その結果として世の中に憎悪や分断の種を播いている。自分の欲求に従って助けたい者だけを助けているに過ぎないのに、それが社会全体の「共生」や「相互理解」や「平和」につながると思っている。
だが実際には、私たちの「善意」や「やさしい心」や「共感性」や「良心」はこの社会の調和を乱し、融和を壊し、分断を煽り、軋轢を強め、憎悪を蓄積させ、絶望を深めている。こんな愚かで罪深いことが他にあるだろうか。
この世界が壊されてしまうのは、「悪意の存在」ではなく「善意の偏在」によってだ。
私たちは、「善意」から背を向けて遠ざかり、陽のあたらない薄暗く汚い場所にいる人びとにこそ、目を向けなければならない。遠い昔に、かれらがやっていたことを、やるべきだと伝えていたことを、21世紀に私たちが引き継がなければならない。