「コラボ問題」が全方位から批判の声を集めている理由

ご存じのとおり、いまSNSやインターネットでは、虐待や性被害などを受けた女性支援を活動目的とした一般社団法人「Colabo」の会計上の疑惑をめぐる論争(東京都からの事業委託料を不正に受給しているのではないかとの指摘と、それに対するColabo側の反論)――いわゆる「コラボ問題」があらゆる方面に波及し、大きな騒動となっている。

画像=「Colabo」公式サイトより
画像=「Colabo」公式サイトより

これがもはや「ツイッターの一部界隈のバトル」といったスケールをはるかに超え、行政や政府やNPOなどの「女性支援」という事業あるいはジャンルそのものに対する怒りにまでその規模を拡大させている(※3)。これはおそらく偶然ではない。

※3 https://news.yahoo.co.jp/articles/11a923dec8a039c7016ee6d7197e12b5df03fcf5

人間一人ひとりに弱者救済の営みを任せてしまっては、どうしても「かわいそうランキング」に従って弱者を助けてしまうからこそ、救済は人間ではなく人間がつくった「公(行政・政治・司法)」的なシステムにいったん預けるべきだ――という建前がことごとく崩壊し、ほとんどの人がそのスキームに合意できなくなってしまっているからだ。

結局のところ「公」と呼ばれた領域すらも「かわいそうランキング」の影響下にあり、人間一人ひとりが私的に弱者救済するよりもずっと大きな規模で「不公平・不平等な救済」を再生産していた。この絶望的な現実を象徴するダメ押しの一手となってしまったのが「コラボ問題」だったのだろう。

「コラボ問題」は、最初はSNSの一部界隈にだけ注目を集める小さなボヤ騒ぎに過ぎなかったかもしれないが、いまはもう違う。これは後々ふりかえってみれば、人びとが想像している以上に大きな禍根を残すのではないだろうか。

Colaboという団体の健全性が追及される過程で副次的に明らかになってきた、行政や政治によって公認され後押しされている「救済対象の偏り」は、人びとの人情や共感では救済され得ない「透明化された人びと」からすれば「きっと『公』なら『私』よりもずっと平等で公平な救済をしてくれるはずだ」――という、最後の望みを完全に潰されてしまうような形になってしまったからだ。

人情や共感を持たない、言ってしまえば「融通の利かない救済」を達成するからこそ平等や公平を担保すると期待されていた「公」が、実は生身の人間さながらに人情や共感をベースにしてシステムをつくり、制度的にも予算的にもより大きなスケールで「かわいそうな弱者」を助けようとしていた――この身も蓋もない現実は、「かわいそうランキング」によって社会の辺縁部に棄て置かれ、置き去りにされてきた人びとから見れば、絶望以外のなにものでもないだろう。

この問題について、SNSのジャンルやクラスタを問わずさまざまな方面から男性たちの怒りの声が上がっているのは、自分が公的にも私的にも差別され、語弊をおそれずにいえば「下級市民」扱いされていたことをはっきりと気づかされてしまったからだ。100年200年のちの歴史書に、この国における分断を決定づけた象徴的な契機として記述されたとしても私は驚かない。