「公」までもが、弱者を選別していた

だが、2020年代に入って、この議論が崩れつつある。

というのも、「公」そのものはたしかに非人間であり人情や共感性を持つことはないとはいえ、結局は人がつくったシステムに過ぎず、最終的には人間の人情や共感性に近似した結果をもたらす――という絶望的なエビデンスが揃ってきているからだ。

一例を挙げよう。「公」の代表格である行政(自治体)を見てみると、たとえばかれらが市民社会に提供している「弱者支援」の代表例であるDVについての電話相談、法律相談、一時避難シェルターなどの対象は、そのほとんどが女性に偏っている。男性に対しては設けられていないか、あるいは設けられているとしても女性に比べれば天と地ほどの差がある。

あるいは「公」に準じる教育機関でも同じようなことが起こっている。たとえば大学の理系研究職や入学希望者について「女性枠」が設けられることが近年ではスタンダードになりつつある。しかしながら統計的に見れば、親や周囲から進路についての介入を受けている女子は少ない(周囲からの介入を受けているのは男子の方が多い※1)。また女子の方が自分のことを「文系タイプ」と自負しており、なおかつ進路に理系を希望する割合も男子に比べて女子の方が少ない(※2)。つまるところ、もっぱら自分の意思で理系を忌避しているに過ぎないにもかかわらず、世間は「女性は本人の意思に反した進路を強いられている」と同情的に解釈してゲタを履かせることに同意してしまう。

※1 男女共同参画白書 令和元年版 『育て方における家族の意識(勉強について)』より引用
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-00-19.html

※2 男女共同参画白書 令和元年版 『文系・理系に対する意識(中学生,男女別)』より引用
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-00-10.html

市井の人びとそれぞれが自分の「良心」に従って他人を助けてしまうと「わかりやすく同情・共感できる弱者」にばかり助けの手を差し伸べてしまう。だからこそ、そうした人間的な良心によって対象を選別しない“社会システム”に人びとの持つ救済リソース(税金・マンパワー・インフラなど)が預けられるべきだ――という建前論が「社会支援」の意義を語る際にはあった。……だが肝心の社会システムも、俗世を生きる人間の「良心」を持っているのと変わらないような施策を打ち出していた。そのことを私たちは2020年代に入ってすぐ、次々とエビデンス付きで突きつけられるようになってしまった。

差し出した手をつかもうとする手
写真=iStock.com/Ritthichai
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