社会の「弱者救済」の仕組みは正しく機能しているだろうか。文筆家の御田寺圭さんは「わかりやすい“かわいそうな人”に対しては手厚い支援があるが、本当の弱者は半ば無視され、その存在は透明化してしまっている」という。なぜ、そうした偏りが生まれ、救済の方向性を修正するにはどうしたらいいのか――。
インスタントラーメンにお湯を注ぐ様子
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沼田牧師からの手紙

東京都北区で教会を運営する牧師・沼田和也氏がこのプレジデントオンラインで私について言及していたようだ。私についてというより、厳密には私が提唱する「かわいそうランキング」という概念についてであるが。

近頃は色々とデリケートな時代で、ひと昔前なら当たり前のように行われていた同じ媒体での著者同士の「往復書簡」が難しい情況になっているのだが、今回は特別にそうした記事を書く機会を与えていただいたので、少し書いていきたい。

「かわいそうランキング」とは、私たちが目を逸らす、私たち自身の影

私が言論人としてこれまで世に出してきた主張(あるいは問題提起)はいくつかあるのだが、なかでも沼田氏がとくに惹かれているのは、「弱者とは、必ずしも助けたくなるような姿をしているとはかぎらない(助けたくなるような姿をした弱者は、弱者全体のなかでほんのわずかな上澄みだけだ)」――という命題であるようだ。

これこそが「かわいそうランキング」というワードが示す問題の核心部である。

他者からの助力を得なければ、とてもではないが生きていくことができないような、いわゆる「弱者」は、しかし必ずしも助けたくなるような姿をしているとはかぎらない。むしろ実際には「なぜ私たちがこんな奴を助けなければならないのか」という暗い感情が湧き上がってくるような姿やふるまいをしていることの方がずっと多い。それでも助けようと手を差し伸べると、感謝されるどころか攻撃されたり、逆恨みされたりすることさえある。

よって、人間のなかにある素朴な人情や共感にもとづいて「支援」「包摂」「救済」といった営みを実施しようとすると、結果的にそれらの対象のほとんどを「助けたくなるような姿やふるまいをした弱者」が占めてしまう。つまりは女性・子ども・可愛らしい動物といった属性を持つ存在である。ある人がパッと見たときに、わかりやすく「かわいそう」という感情を喚起するような存在によって、人間社会がだれかを助けるために用意されたリソースの大部分は費やされてしまう。

人間の持つ人情・共感性・慈悲など、いわゆる「良心」と呼ばれる感覚によって、「弱者」とされる人びとのなかでも支援や救済のリソースがきわめて不公平かつ不平等に配分されてしまうことを、私は「かわいそうランキング」と呼んだ。

「かわいそう」という感情をより多く集める、いうなれば「上位ランカーの弱者」が、社会的リソースの大部分を集めてしまい、「かわいそう」という感情を持たれない(もっといえば「こんな奴は落ちぶれて当然だ」といった視線を向けられる)ような「下位ランカーの弱者」は、だれの目にも留まることなく透明化されていく。