イエスや親鸞の慈愛

こうした現状を、私が提唱した「かわいそうランキング」という概念について自著で取り上げた牧師の沼田氏の“専門領域”ではどのように扱っているだろうか。

キリスト教や仏教といった伝統的な宗教(の指導者)が往々にして「弱者が必ずしも助けたくなるような姿をしていない」ことに言及しているのは偶然ではないだろう。

市民社会にせよ公的セクションにせよ、結局「人間」が関与してしまうと、どうしてもこの“業”から逃れられないことが、かれらには分かっていたからだ。

人間の素朴な良心や慈悲心では助けたくならないような弱者をそれでもあえて救うのであれば、もはや人間の業ではなく、神や仏のような「人間ではない何者か」の御業を期待するしかない。

なぜイエスや親鸞は貧しく薄汚れた身なりをした、つまり世間的には「卑しい」とされていた人びとにこそ愛情深く接したのか。かれらは人間の「やさしさ」「善意」「良識」「道徳」の持つ冷酷な表情を知っていたからだ。人間の美しく清くただしい心では、どうしても救われない者こそが、真に救いを必要とする弱者であることに、かれらは気づいていたからだ。

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また「人間とはかくあるべきだ」と、世間に向かって善や正義や道徳がなんたるかを公然と説く、物質的にも教養的にも優位な学者や貴族が、むしろそうした弱者にさらなる苦境をもたらしていることにも気づいていた。人間が説き、人間が実践する「ただしさ」によっては救われえぬ者たちのためにこそ、かれらは神や仏による「赦し」があることを伝えた。

人間の営みのなかでは棄て置かれるかれらこそが、本当に助けられるべき弱者であることを、かれらは分かっていた。