今川家との本当の関係性
しかし、近年では、岡崎城に城代は置かれていなかったのではとの説もあります(本多隆成『徳川家康の決断』など)。城代ではなく、奉行である今川の有力家臣たちが、交代で城に詰め、その下で松平家の譜代家臣が実務を担当していたのではと言われているのです。
確かに、東三河にある吉田城には今川氏の城代が置かれていて、実務を担う者も今川氏の家臣であり、今川による「直接支配」が行われていました。ただ、松平家の本拠地である岡崎城は前述のような状況であり「間接支配」だったと言われているのです。
天下人ゆえに“盛られた”幼少期
若い頃の家康と松平家臣に苦労が全くなかったなどと言うつもりはありませんが、忍従と苦労が過剰に後世に伝えられている可能性がありましょう。
家康は幼い頃から苦労して、ついに天下人になったとした方が「物語」としては劇的ですし、感動を生みます。
(主要参考文献)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
本多隆成『徳川家康の決断』(中公新書)
笠谷和比古『徳川家康』ミネルヴァ書房