もしマリーが気弱な男と結婚していたら…

18歳から6年間、マリーは給与の半分を姉に仕送りし、いくつかの家で働いた。だが他人の家に居候いそうろうし、爪に火をともすような生活が何年も続くと、さすがに従妹への手紙で愚痴ぐちをこぼすようになる。いわく、自分には運がない、永遠にここから抜け出せないような気がする、前はパリへ行きたかったけれど、とうにその夢は消えてしまった、と。

この絶望は、恋愛がうまくゆかなかったことも関係していた。雇用主の息子と愛し合うようになったのだが、無一文のガヴァネスとの結婚など論外として家族の反対にあったのだ。男の方はそれに立ち向かう強さがないことを、マリーはようやく思い知った(拙著『歴史が語る 恋の嵐』角川文庫参照)。

この失恋は人類科学史上の僥倖ぎょうこうだった。もしマリーが気弱な男と結婚してポーランドにとどまっていたら、輝かしい未来はなかったろう。タイミング的にも良かった。姉のブローニャが約束どおり医者になって、マリーをパリへ呼びよせたのだ。マリーはしばらく逡巡しゅんじゅんした後、パリへ旅立った。

不遇に負けず、女性初のノーベル賞を2度受賞

ここから先はよく知られた話となる。彼女はフランス国籍をとり、フランス人科学者ピエール・キュリーと結婚、二人の娘を育てながら研究を続けた。ちなみに長女のイレーヌも後にノーベル化学賞を受賞している。

写真=iStock.com/Bob Douglas
ワルシャワニュータウンの端にある聖母マリアの訪問教会の前にて。マリーキュリーの像

マリーのガヴァネス生活を描いた絵画はない。だが同時代のガヴァネス事情を、ロシアの画家ヴァシリー・ぺロフ(1834〜1882)の『商人宅へのガヴァネスの到着』が伝えてくれる。

ホガースと通じる、物語的ないし挿絵さしえ的作品だ。「商人」とわざわざタイトルに記し、尊大な様子の主人とその息子(そして壁に掛けられた祖父の肖像。三人ともよく似た風貌)から、教養のない成金一家であることが想像される。

質素な服に身を包んだガヴァネスはまだ若い。初めての職場なのだろう。相手の顔をまともに見られず、おそらく震える手で紹介状を取り出そうとしている。目の前の雇用主たちやドアの向こうからのぞき込む使用人たち、また自分が教えることになる少女の、好奇心をあらわにした視線が痛いのだ。

当時、金持ち階級が求めるガヴァネスは、レディであることが第一条件だった。つまり中・上流階級出身で、しかるべき礼儀作法を心得ていなければならない。単に勉強を教えるだけでなく、品のある物腰を子どもたちにたたき込めることが大事だ。すると矛盾が生じる。この時代、仕事を持つ女性をレディとは呼ばなかった。従ってガヴァネスは、出自しゅつじがレディでも現況はレディではない。要は没落した良家の娘の、数少ない仕事の一つがガヴァネスであり、あわれむべき境遇ということになる。

画中のロシア商人の家族が全くガヴァネスに敬意を表さず、それどころか自分らより

中野京子『名画の中で働く人々 「仕事」で学ぶ西洋史』(集英社)

高い階級だったのに今やその座から転落した哀れな娘として、珍獣でも見るように遠慮会釈なくじろじろ見ているのはそこから来る。彼女が恐怖と屈辱に耐えていることを、かえって面白がっているのかもしれない。今後の仕事はつらいものになるだろう。

マリー・キュリーも、かつて――これほどあからさまではなくとも――差別的な視線、あるいは侮辱的なまでに憐れむ視線を受けたことがあったのではないか。なぜならそういう時代だったのだから。

そしてマリーのかつての雇用主たちは、彼女がノーベル賞を受賞した時(パリに出てわずか12年後だ)、自分が空前絶後のガヴァネスを雇っていたと知ってどんなにか驚愕きょうがくしたことだろう。

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