1959年2月、ロシア・ウラル山脈で大学生ら9人が怪死した。マイナス30度の冬山で見つかった遺体は薄着で、全員が靴を履いていなかった。3人は頭蓋骨折などの重傷、女子学生は舌が丸ごとなく、衣服からは高濃度の放射線が検出された。なぜこんな遭難事件が起きたのか。作家・中野京子さんの著書『新版 中野京子の西洋奇譚』(中公新書ラクレ)から紹介する——。
2月に救助隊が発見したテントの全景。テントは内側から切り裂かれ、スキーヤーのほとんどは靴下か裸足で逃げた。(写真=PD-RU-exempt/Wikimedia Commons)
1959年2月26日、救助隊が発見したテントの光景。テントは内側から切開されており、一行のメンバーたちは靴下や裸足でテントから逃げ出していた。(写真=PD-RU-exempt/Wikimedia Commons

ソ連の冬山で起きた「ディアトロフ事件」の謎

20世紀前半の大規模な戦争のさなか、ロシアでは皇帝専制打倒を掲げた暴動が繰り返し起こった。後にこの時の戦争は「第一次世界大戦」、暴動のほうは「ロシア革命」と呼ばれるようになる。

この革命によってロシアは長く続いたロマノフ王朝を倒し(拙稿『名画で読み解く ロマノフ家 12の物語』参照)、1917年、世界初の共産主義国家を樹立した。国名もロシア帝国からソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)へと変わり、この体制は「ベルリンの壁崩壊」後の1991年まで続く。

その間に資本主義国家と共産主義国家の冷戦があり、もともと秘密主義の色濃いソ連は、鉄のカーテンの向こうに隠れていっそう他国の眼から見えにくくなった。70年以上もカーテン越しだったのだ。

ロシア絵画があまり知られていない大きな理由はそこにあるし、ソ連時代に起こっていた数々の事件も、ロシア連邦に変わるまで噂でしか知り得ないものが多かった。

奇譚というにふさわしい「ディアトロフ事件」もその一つである。謎はまだ解明されていない。

現場は「死の山」と呼ばれていた

1959年1月。日本ではメートル法が施行され、南極に置き去りにされた樺太犬タロとジロの生存が確認された。フランスではド・ゴールが大統領に選ばれ、アメリカではアラスカが49番目の州になっている。

そしてソ連。ウラル科学技術学校(現ウラル工科大学)のエリート学生たちを中心とした若者10人の一隊が、真冬のウラル山脈をおよそ2週間の行程でスキー・トレッキングすべく、エカテリンブルクを出発した。

隊長は大学4年生のディアトロフ(この事件が彼の名にちなんで付けられたことがわかる)。他に男7人、女2人。皆20代前半だったが、男性のうち1人だけが30代後半の元軍人。インストラクターとしてついて行ったとされる。

彼らが残した日誌、数人が撮った写真、途次に立ち寄った場所での地元の人々との交流などは正確に知られており、それによれば、出発して10日目の2月1日が、ホラチャフリ山、即ち先住民マンシ族の言葉で「死の山」――なんとも不吉で、しかも予言的な山名ではないか――へ登る前日だった。直前に男子学生1人が体調不良で脱落したため(おかげで彼は命拾い)、グループは9人に減っていた。

9人は翌日の万全を期し、「死の山」の斜面をキャンプ地にして一泊を決める。この夜に「恐るべき何か」が起こったのだ。