そばにいたがる女房たちを追い出し、自害

翌六月一日、信長は、さきの太政大臣近衛前久、関白一条内基ら訪れてくる多数の公家衆と歓談、茶会を開いた。

六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国の皆道かいどうなり。左へ下れば、京へ出づる道なり。ここを左へ下り、桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。既に、信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者ども仕出しいだし候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打ち入れ候。是れは謀叛か、如何いかなる者の企てぞと、御諚ごじょうのところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。

…………

信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓のつる切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵やりきずこうむり、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か、殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸なんどの口を引き立て、無情に御腹めされ、(『信長公記』)

「大日本名将鑑」より「織田右大臣平信長」(画像=月岡芳年/ロサンゼルス郡美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

本能寺の変で完成した非凡な生涯

信長の最期である。四十九歳。

秋山駿『信長』(朝日文庫)

戦いつつ死ぬ。これ以上信長にふさわしい死はない。「明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候」のあたりは、ギリシア悲劇の一節である。

信長の運命は非凡である。この最期によって、彼の生涯が悲劇として完成した。あるいは、奇蹟きせき的な意味を持つ一つの存在と化した。天の配剤があったという他はない。

最後の言葉――「是非に及ばず」は、あまりにも信長式に簡潔過ぎるから、裏にナポレオンの言葉を刻んでおこう。

「天才とは己が世紀を照らすために燃えるべく運命づけられた流星である。」(『ナポレオン言行録』)

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