野村監督には“図抜けた長嶋茂雄”“凡人の野村克也”がよく見えていたのだ。凡人は原則にのっとって生きるしかない。自分をよく見せるために、自画自賛したり選手を悪く言ったり、それがどれだけみじめな行為かわかっていても、どうすることもできない。
富と名声を十分手に入れたにもかかわらず、ずっと自分がどう評価されているかビクビクして、自分を大きく見せるために一喜一憂していた野村監督。芋のツルしか入っていない弁当を隠しながら食べた、あの貧しい少年時代の彼のほうがよっぽど気高いではないか。
昔の監督業はGMやスカウト部長も兼ねていた
ところで監督の仕事の範囲とは、いったいどこまでなのだろう。
結論からいうと、アメリカと違って日本の場合、監督の仕事というのは非常に曖昧で、ケース・バイ・ケースというしかない。
1970年代半ばぐらいまでは、監督がゼネラルマネージャーやスカウト部長まで兼ねていた。職としてではなく影響力として。
トレードに関しても、監督が球団代表に希望を伝えて、「そんなら獲ってきましょう」と球団代表が動く場合がほとんどだった。監督が直接動くケースもあったが、これはさすがに異例。江夏と僕のトレードは、吉田さんと野村監督が直接話をしたが、これはまれなケースである。
担当者の能力は別としても、現在は編成部やスカウトというようにセクションが整理されているので、トレードは編成部長の仕事になっている。監督が率先して動くことはない。今でも監督がトレードまで仕事にしているケースもあるが、これは球団オーナーから「チームづくりからやって。金は出すよ」と言われている場合だけである。
野村監督の守備範囲は監督業だけ
楽天時代の野村監督の守備範囲は、監督業だけだった。
だから野村監督が「あの選手がほしい」と言っても、「お金がありません」と代表がひとこと言って終わり。その選手が楽天のためにどれだけ必要か否かを検討する余地などなし。思うようにならない状況に野村監督はいつもイライラしていた。
もちろん選手獲得も重要だが、楽天の場合、宮城球場(楽天生命パーク宮城)の収容人数という大きな問題を抱えていた。
プロ野球規定では、オールスターや日本シリーズは3万人未満の収容球場では開催しないというルールがある。当時の宮城球場は2万3000人程度。楽天は宮城球場を使用すると決めたときに、改築して3万人以上収容できるようにすると言ったが、野村監督の在任中には実行されなかった。