2020年に亡くなった野球評論家の野村克也さんは、どんな人だったのか。プロ野球解説者の江本孟紀さんは「テスト生として入団した叩き上げなので、エリートは嫌いだった。その一方、きんぴかの指輪や時計、ブランドものが大好きという複雑な内面をもっていた」という――。

※本稿は、江本孟紀『野村克也解体新書 完全版 ノムさんは本当にスゴイのか?』(清談社Publico)の一部を再編集したものです。

野村克也監督
写真=時事通信フォト
1995年5月26日、4連勝で首位を堅持し、9セーブ目を挙げた高津臣吾投手(右)とがっちり握手するヤクルト・野村克也監督(千葉マリン)

ホームランバッターはいつの時代でも人気がある

野村監督は、どうして人気があったのか?

長嶋茂雄さんのように東京六大学野球のスターであったわけでもない。王貞治さんのように甲子園のスターであったわけでもない。

それでも野村監督に人気があったのは、ホームランバッターだったからだ。あの頃も、そして今もホームランバッターはいつの時代でも子どもに人気がある。ホームランバッターの人気は、情報がいくら変化しても変わらない“永遠の真理”なのだ。

貧しかった野村家は、兄弟ふたりを進学させる余裕はなかった。母は成績がよかった兄を大学まで進学させて、弟の克也には中学を卒業したら働かせようと考えていた。ところが兄は大学進学をあきらめて弟を高校に通わせた。

高校で野球部に入った野村克也は、地元ではそこそこ名が知れた選手になったが、実績もなくプロになるほどのレベルではなかった。入団テストを受けてプロになることを決めた克也は、受験する球団を研究する。自分がレギュラーになるチャンスが大きいという視点で、一軍で活躍するキャッチャーの年齢が高いチームを探したのだ。その結果、南海が候補に挙がった。

クビを言い渡されるも「飛び込み自殺します」

1954年、やっとの思いで南海のテストを通過した野村は、契約金なし、給料7000円で入団する。サラリーマンの平均月収が2万6000円の時代だった。ちなみにその4年後に巨人に入った長嶋さんの契約金は1800万円であった。

プロになった野村を待っていたのは「おまえらはブルペンキャッチャーで拾われたんだ。3年でクビだよ」という先輩の言葉だった。しかし現実はもっと厳しく、野村は1年目を終えた時点でクビを言い渡される。「南海電車に飛び込み自殺します」という必死の懇願が受け入れられて、なんとかクビだけは免れる。その後、野村は、肩とバッティングを鍛えて、入団3年目に一軍のキップを手にする。叩き上げのプロ野球人生の始まりである。

エリートを攻撃することで自分の存在を誇示する。その考えに凝り固まっている。それが野村克也だ。

徹底した長嶋茂雄攻撃。野村監督の野球人生のすべてといっても過言ではない。幸か不幸か、ヤクルトの監督時代は長嶋さんが巨人の監督に復任した時期と重なっていたから、とくにひどかった。

野村監督は、長嶋さんを攻撃することで自分の存在感が増すことを知っていた。自分の叩き上げが本物だということを世間にアピールするために、エリートの長嶋さんを利用していたのだ。あれだけの実績を持っていても、つねに自分の存在意義を気にしていた。