一族のためなら従兄弟も裏切る

決定的なのは、建暦3年(1213)の和田合戦だった。「鎌倉殿の13人」では、横田栄司演じる朴訥なひげ面が「癒やしキャラ」として人気を呼んだ和田義盛が蜂起した、鎌倉時代初期最大の争乱である。北条時政が失脚してすでに8年。義時の執権が板についていたころのできごとだ。

和田義盛(画像=『前賢故実』/菊池容斎/PD-Japan/Wikimedia Commons

じつは、和田氏は三浦氏の分家で、義盛と義村は従兄弟だった。合戦が起きた当時、義盛は67歳で、北条義時は51歳。三浦義村は生没年が不詳だが、義時より若干年下だったと考えられるので、義盛と義村は20歳程度、年齢が離れていたはずだが、ともかく従兄弟同士だった。

そして、三浦家の惣領は義村だったものの、頼朝以来の忠臣で、侍所別当を長く務める義盛の力は、義村をしのいでいたようだ。

ともあれ、和田義盛は北条義時を相手に戦うことを決意したとき、従弟である三浦本家の義村と胤義の兄弟を誘っている。これに対し、三浦兄弟は義盛らと一緒に戦うことを約束し、けっして裏切らないという証しに起請文まで書いている。

ところが、義村は義盛を裏切るのである。

ドラマでは、和田義盛を「善人」に描くためだろう、義盛が義村の裏切りを受け入れるように描いていた。これは脚色がすぎると思うのだが、ともかく、三浦兄弟は義時邸に駆けつけ、義盛の謀反計画を暴露している。

義盛の計画は、まずは将軍実朝の御所を襲撃し、その身柄を確保するという狙いだったようだ。しかし、義村の裏切りのおかげで、義時はいち早く実朝邸に軍を送って、実朝を御所から連れ出し、確保することができた。

義村自身も実朝の御所の近くに出撃し、三浦は和田と一族同士で殺し合うことになった。そこまでしてでも、三浦の家を守ろうとしたのである。そもそも義村らが義盛に起請文を書いたのも、彼を油断させる狙いがあったのかもしれない。

結果として、この合戦に勝利した北条義時は、かねてからの政所別当に加えて、和田義盛が就いていた政所別当も兼職することになり、執権として一般の御家人よりも高い地位を確立。同時に三浦義村も、幕府において北条に次ぐ地位をたしかなものにしたのだ。

実朝暗殺の黒幕ではない

実朝が暗殺されたときもそうだった。

大河ドラマでは、義村は2代将軍頼家の遺児である公暁から事前に、実朝を暗殺して自分が将軍になるという計画を相談されていた。しかも、それに協力する旨を伝えていた。いわば、公暁の黒幕に義村がいたように描いていたが、現実には、これまで危ない橋をことごとく避けてきた義村が、そんな計画に乗ったとは到底思えない。

しかし、義村は公暁の乳母夫だったから、公暁から頼られるのは自然なことだ。事実、鶴岡八幡宮の石段を下ってきた実朝を襲って首を打ち落としたのち、公暁はその首を抱えたまま三浦義村に使者を送り、実朝を討ち取ったこと、自分こそが将軍にふさわしいので、すぐに準備をしてほしいこと、などを伝えている。

だから、公暁が義村を味方だと思っていたのはまちがいない。だが、義村は公暁に、自分の家に来るように返信し、それと同時に義時に使者を送って、公暁から連絡があったことを伝えている。そして、義村邸に向かった公暁は、義村が遣わした家人と争った末、首をはねられたのだ。