朝廷側の挙兵の言い分

そしてついに、後鳥羽院は、北条義時追討の院宣(院に仕える院司が、院の意向を受けて発給する命令書)を出すのです(1221年5月)。そこには、院が義時を討とうとするに至った心が吐露されてします。院宣にはこうあります。

「3代将軍・源実朝が亡くなった後、御家人たちは、後鳥羽上皇の判断を仰ごうと申していた。北条義時は、鎌倉の主人として誰がふさわしいか考えたが、3代将軍の後を継ぐ人は鎌倉にはいないと言い、さまざまな注文をつけて、摂政の子・三寅を次の将軍として鎌倉へ下向させた。しかし、三寅はまだ幼く何も分からない。

義時はそれを良いことに、野心を持ち、権威を持とうとした。これをどうして許すことができようか。よって今後は、義時の奉行を停止し、後鳥羽上皇の命令により決すべし。もしこの決定を受け入れず、反逆しようというのならば、早くその命を落とすが良い。功績があるならば、褒美をとらそう。この命令を知らしめよ」と。

この院宣には、後鳥羽院の意思に義時が反していると書かれています。院方としては、そのように主張し、多くの御家人を味方に付けようとしたのでしょう。

しかし、承久の乱は、後鳥羽院の思ったようにはなりませんでした。後鳥羽院と義時のパワーゲームの結末は、院方にとって悲しいものとなるのです。

義時を「悪人→善人」にした魂の大演説

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第47回「ある朝敵、ある演説」では、承久の乱を前にした有名な北条政子の演説が描かれていました。

北条政子像〈菊池容斎画〉(図版=PD-Japan/Wikimedia Commons

鎌倉のため自分の首を差し出すという弟・義時を制し、政子が御家人たちの前に立って魂の大演説をしたのです。が、義時が朝廷に自分の首を差し出そうとしたとの事実はありません。

ドラマ上のこの描写によって、策謀を巡らせてきた陰険な「悪人」義時が、一瞬にして、命を懸けて鎌倉を守ろうとする「善人」義時に変化したように感じました。

ドラマにおける政子の演説も、最初は「右大将(頼朝)の御恩は、山よりも高く、海よりも深い」という有名な言葉も出てきましたが、途中からは、スピーチ原稿を見ずに、自分の言葉で語りかけていました。