承久の乱を前に、北条政子は御家人たちに何を話したのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「史料によれば、源頼朝の御恩を切々と説き、朝廷側についた武将を討てというものだった。大河ドラマで描かれたような、弟・義時についての発言はなかったはずだ」という――。
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮(写真=Nerotaso/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

幕府と朝廷の争いの火種はどこだったのか

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は第47回「ある朝敵、ある演説」(12月11日放送)を終え、最終回では承久の乱が描かれることになります。

朝廷と幕府が全面対決した承久の乱の要因は何だったのでしょうか。ドラマでは後鳥羽上皇役の歌舞伎役者の尾上松也さんが大いに幕府に怒りをぶつけていましたが、史実としてはどうだったのでしょうか。

1219年1月、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝は、鶴岡八幡宮において、公暁(2代将軍・源頼家の遺児)により殺害されます。実朝は、都から、公卿・坊門ぼうもん信清の娘を御台所として迎えていました。

しかし、2人には子供がいませんでした。また、実朝は側室を持とうとはしませんでした。そのような状況でしたので、このままいけば、源氏将軍が絶えてしまうことは時間の問題。

実朝もそのことは十分理解していたようで、生前、大江広元に対し「源氏の正統な血統は、自分の代で終わり、子孫がこれを継ぐことはない。よって、私が高い官職について、家名をあげたいと思っているのだ」(『吾妻鏡』)と語ったとされます。

とはいえ、自分の後継のことを何も考えないのは無責任ということで、実朝が構想していたのは、京都から後鳥羽上皇の皇子を将軍として招くというものでした。

実朝の母・北条政子も上洛したおりには、頼仁よりひと親王を養育する卿二位兼子(後鳥羽の乳母)と面会し、交渉を進めたようです。兼子は、頼仁親王に皇位についてほしいと願っていましたが、それがもしかなわないならば、鎌倉で将軍となってもらいたいと思っていたとのこと。その心の隙間にうまく入り込むことに成功し、実朝の後継として、頼仁親王と雅成まさなり親王の兄弟どちらかを鎌倉に下向させる話が進んでいました。

実朝からすれば、後鳥羽上皇の親王を後継将軍として鎌倉に迎えることで、幕府に「公家政権」の権威を取り込むことができると考えたのでしょう。そして、自分は将軍職を退き、自由に振る舞える、京都に上り、後鳥羽院やその近臣たちと交流し、好きな和歌を詠み合うことができると思っていたでしょう。しかし、その実朝の夢は暗殺により、無惨にも打ち砕かれます。

もし実朝が生きていれば…

実朝暗殺は、朝廷と幕府との関係に暗雲をもたらします。幕府は、すぐに後鳥羽院の皇子を鎌倉に下してくれるよう要求。が、後鳥羽院の結論は、親王のうち、どちらか1人はいずれ鎌倉に下向させようが、今すぐには無理というものでした。というより、親王を下向させるつもりはありませんでした。

鎌倉時代初期の僧侶・慈円の史論書『愚管抄』には、後鳥羽院の言葉「どうして将来に、この日本国を二つに分けるようなことができようか」を載せています。

実朝が生きていれば、公武(朝廷と幕府)の融和が図られて、親王を下向させても良いが、実朝が殺された今、親王を下向させることはできない。親王を幕府に取り込まれて、利用されてしまう、そうなれば、日本国が分裂してしまうと考えられたのでしょう。

何より、将軍が殺されてしまうような物騒なところに、自分の皇子をやれるかとの親としての想いもあったと思います。

結局、後鳥羽院は親王の下向を許可せず、摂関家の子ならば良いだろうという「妥協」をします。九条道家と西園寺公経の娘・掄子りんしの子として生まれた三寅(後の4代将軍・藤原頼経)、2歳を下向させることにするのです。この三寅を後見したのが「尼将軍」北条政子でした。

もし、実朝が生きていたら、予定通り親王将軍が誕生し、朝廷と幕府の協調は続いたでしょう。承久の乱(1221年)が起こることはなかったと推測されます。承久の乱勃発の遠因は、実朝の死と言えます。