江森敬治氏の『秋篠宮』(小学館)の中で、秋篠宮自身が「自分勝手で独善的とも思える夫」といっている。
失礼ないい方になるが、人間としての真の強さではない。自分の弱さを隠そうとする本能のようなもので、他人の意見を聞かず、殻の中に閉じこもってしまうのではないか。
眞子さんが秋篠宮に連絡をしてこないのは、秋篠宮の頑固さ、一度こうと思い込んだら梃子でも動かないというのを知っているからではないのか。
眞子さんも、小室圭さんとの愛を最後まで貫いたように、父親以上とも思われる意志の強さがある。
歩み寄りは難しいが、いつかはやらなければならない。
「父は永遠に悲壮である」とはいうけれど
今の時代、会って話さなくても、SNSを使えば対話はできる。こちらから話しかけるのは父親としての沽券にかかわるなどといっていないで、次女の佳子さんに仲介してもらって、話し合えばいい。
眞子さんが15歳の時、2人で行ったマダガスカルの話をすればいい。狭い車内で何度も車の天井に頭をぶつけたこと、徳利の形をしたバオバブの木の話をすればいい。失われた時間は一瞬にして戻ってくる。
秋篠宮を見ていると、詩人・萩原朔太郎の「父は永遠に悲壮である」という言葉を思い出す。妻子からは良き家庭人であることを期待されるが、一方で家族には理解してもらえず、煙たがられる存在。そんな中でも体面を保ちながら、生きていかなくてはならない。父親というのはつらいものだ。