スポーツは本来「気晴らし」である

そもそも、生徒の自主的、自発的な参加により行われる運動部活動は、生徒がどのような目的で参加しようとも自由です。私はこれまで運動部活動を「憧れの選手のようにプレーしたい」「周囲の人たちに認められたい」「達成感を味わいたい」「勝ちたい」といった動機で参加してきました。自身の社会性を高めることを目的に参加してはいませんでした。周囲の部員も同様でした。

現在、大学のトライアスロン部の監督を担っていますが、部員に対して社会性を養うことを目的に指導は行っていません。部員も社会性を高めることを目的に入部はしませんし、水泳3.8km、自転車180km、ランニング42.195kmという非日常を実践することが社会性につながることも思えません。また、トライアスリートに限定されないエンデュランスアスリート(マラソンランナーやサイクリストなど)は、長時間の練習や試合に伴う弊害も研究で指摘されており、私の身近にも仕事や家庭を顧みないで練習や試合に励んでいたアスリートもいました。

そもそもスポーツの語源はラテン語の“deportare”であり、気晴らしを意味します。日々の労働や日常の規範からの逸脱が、気晴らしになり得ます。スポーツそのものが労働や日常の規範の連続であるならば、気晴らしにはなりません。気晴らしは日常の規範にとって危うさを持っています。

写真=iStock.com/Geber86
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スポーツでは必ずしも社会性は育まれない

私は「このままではスポーツが駄目になってしまう!」「スポーツの危機だ!」と叫びたいわけではありません。「えげつない」行為が要求されるスポーツは、それほど上等なものでありません。一方で、日常の倫理とは異なる倫理を求められることが魅力の一つであるとも考えています。そのようなスポーツを用いる運動部活動において、日常の倫理を重んじる社会性が育まれないことは、なんら不思議なことではありません。

指導者が運動部活動において部員の社会性を養うことを目標とするのであれば、以上のようなスポーツの側面を認識する必要があり、ひたすらに高いレベルを目指すことやスポーツをただ行わせるだけでは、その目標は到底達成されない点を肝に銘じておく必要があります。

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