「海道一の弓取り」の最期

信長も馬から降りて槍で敵を突き伏せると、若い将兵も次々と今川軍を攻撃した。不意を突かれた義元は脱出を試みたが、味方は次々と討ち取られた。今川軍は馬廻り衆、小姓衆らが次々と討たれ、窮地に陥った。

すると、信長配下の服部小平太が義元に斬りかかったが、逆に膝の口を斬られて倒れ伏した。その後、義元は毛利良勝に組み伏せられ、ついに首を討ち取られたのである。義元を討たれた今川方は戦意を失い、一斉に桶狭間から退却した。

桶狭間の戦いは奇襲だったのか

ここで、改めて桶狭間の戦いについて考えてみよう。

桶狭間の戦いで信長軍が用いた戦法は、奇襲攻撃、正面攻撃という二つの説がある。永禄3年(1560)5月19日、信長は今川義元を桶狭間の戦いで破った。義元の2万〜4万(諸説あり)という大軍に対し、信長はわずか2000~3000の兵のみだった。

とはいえ、義元の率いた2万〜4万というのは、その所領の規模を考慮すると、あまりに多すぎて不審である。

信長はわずかな手勢でもって、今川氏の陣に背後から奇襲攻撃をしたというのが通説だった。しかし、今や有名な「迂回うかい奇襲説」には、異論が提示されている。

桶狭間古戦場伝説地(豊明市、2012年)(写真=Tomio344456/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

「迂回奇襲説」によると、5月19日の正午頃、信長の家臣・千秋四郎ら約300の兵が今川軍に攻め込んだが敗北。敗北後、信長は義元が陣を敷く後ろの山へ軍勢を移動させ、迂回して奇襲することを命じた。

そのとき、視界をさえぎるような豪雨となり、信長軍は悪天候に紛れて進軍したという。義元は大軍を率いていたものの、実際に本陣を守っていたのは、わずか4000~5000の軍勢だった。そこへ信長軍は背後から義元の本陣へ突撃し、義元を討ったのだ。

つまり、信長は義元が油断していると予想し、敢えて激しい暴風雨の中で奇襲戦を仕掛け、義元を討ち取ることに成功したといえよう。以上の経過の出典は、小瀬おぜ甫庵ほあん信長記』であり、明治期の参謀本部編『日本戦史桶狭間役』により、事実上のお墨付きを与えられた。