奇襲説の根拠は「不適切」な史料
ところが、この通説には異儀が唱えられた。それは、そもそも小瀬甫庵『信長記』の史料としての性質に疑念が抱かれたからだ。
儒学者の小瀬甫庵『信長記』は元和8年(1622)に成立したといわれてきたが、今では慶長16~17年(1611~12)説が有力である。約10年早まったのだ。同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。太田牛一の『信長公記』と区別するため、あえて『甫庵信長記』と称することもある。
そもそも『信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。
それゆえ、『信長記』の内容は小説さながらのおもしろさで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。『信長記』は歴史の史料というよりも、歴史小説といってもよいだろう。
先述のとおり、『信長記』の成立は10年ほど早いことが立証された。これをもって『信長記』の史料性を担保する論者もいるが、成立年の早い遅いは良質な史料か否かにあまり関係ない。
『信長記』は基本的に創作性が高く、史料としての価値は劣るので、桶狭間の戦いを論じるうえで不適切な史料なのだ。
有力な正面攻撃説の中身
最近の研究では『信長公記』を根拠史料として、次のように指摘された。
千秋四郎らが敗北したことを知った信長は、家臣たちの制止を振り切り、中島砦を経て今川軍の正面へと軍勢を進めた。当初、大雨が降っていたが、止んだ時点で信長は攻撃命令を発し、正面から今川軍に立ち向かった。
今川軍を撃破した信長軍は、そのまま義元の本陣に突撃。義元はわずかな兵に守られ退却したが、最後は信長軍の兵に討ち取られたという。これが「正面攻撃説」である(藤本:二〇〇八)。
現在では、質の劣る『甫庵信長記』に書かれた「迂回奇襲説」は退けられ、『信長公記』の「正面攻撃説」が支持されている。