マキャベリが人里離れたトスカーナの丘の山荘で記した言葉は、長年、冷笑家たちに強く支持されてきた。だが、今の時代では、マキャベリが考えていたほどその言葉は賢明ではなくなっている。
そして実を言えば、マキャベリ本人にとってさえ、賢明とは言えなかった。
『君主論』を書いた頃のマキャベリが山荘に引きこもっていたのは、失脚し、引きこもらざるを得なかったからである。マキャベリはフィレンツェ共和国の高官だったが、非常に専横的で、国を侵略者から守るために必要だとして、市民を強制的に民兵にした。だが、結局、他国からの侵略により、マキャベリの仕えた政権は倒れてしまう。マキャベリは、新たな統治者によって逮捕され、拷問を受けることになった(蝶ほどの大きさのシラミのいる独房に監禁されたと言われる)。その後、農村へと追放されるのである。
市民を顧みなかったイタリアは長く混乱が続いた
『君主論』を書き上げても、マキャベリの人生は好転しなかった。彼を拷問したのは、メディチ家の政権だったが、仕事を求めていたマキャベリは、『君主論』をジュリアーノ・デ・メディチに献呈した。ただ、ジュリアーノはすでに亡くなっていたので、彼の甥である残忍なロレンツォ・デ・メディチに献呈し直したが、それでも良い結果は得られなかった。ロレンツォは献呈に訪れたマキャベリに会おうとせず、代わりに2匹の猟犬を持って来た訪問者と会っていたとも言われる。
そもそもメディチ家は何世代にもわたり、他人を信用せず、他人に厳しい態度を取ることを続けてきた人たちである。わざわざマキャベリのような落ちぶれた官吏に意見される必要などまったくなかった。
メディチ家だけではない。イタリアでは、指導者たちも、市民たちも、皆、長年、同様の態度を取り続けてきた。権力、政府は、ほぼ何の制約も受けず、市民を顧みることなしに、したい放題のことができた。その結果(もちろん、他にも多数の要因があるが)、イタリアでは何世紀もの間、混乱が続いた。弱く小さい都市国家が乱立し、外からの侵略に対抗することもできずにいた。皆が誰も信用しない、そういう場所では、多くの人たちが力を合わせることなどできるはずがない。わずかながら状況を変えようと動いた人もいたが、周囲から邪魔をされてしまい、誰も変革には成功しなかった。