海外の排泄行為を目の当たりにして衝撃を受ける

排泄に関連してさらに思い出すのは、私がアメリカの高校に通っていた頃の体験だ。陸上競技の大会で訪れたとある高校のロッカーに設置された便所で、私はギョッとさせられた。なんと、ロッカーが並ぶ部屋の中央に大便器が2つ置かれていたのだ。しかもそこには別の高校の選手2人が座っており、互いに大便を排泄しながら喋っていて「身体を少しでも軽くすればタイムが向上するよな」「あぁ、大量に出そうぜ!」などと陽気に用を足しているのだ。

そして、トイレットペーパーのロールを「おい、くれ」「あいよ」と融通しあっている。アメリカの若者は、日本の若者が連れ立って小便を出しに行く程度の気安さで、大便を一緒に出しに行くのか……と奇妙な感動を覚えた。

また、パキスタンへ行ったときの光景も忘れられない。公衆トイレにある大便用の便器のまわりに、仕切りなど身を隠せるような設えが存在しなかったのだ。男たちは下腹部丸出しの状態で並んでしゃがみ、何の憂いもなく用を足していた。そして済んだ後は、桶のなかに貯められた水で尻を洗っていた。

これを書きながらいろいろ思い出してきた。インドのガンジス川で見かけた光景だ。男が腰上あたりまで川に浸かり、恍惚こうこつとした表情で立ち尽くしていた。あれはきっと、大便をしていたのだろう。さらにタイでは、川の上にひどく簡素なバルコニー状の板が設置されていて、床に丸い穴が開けられていた。私が見たときは、少年がその穴のそばにしゃがんで大便をしていた。

写真=iStock.com/SoumenNath
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潔癖モンスターのようになってしまった日本人

こうした海外の排便風景について「文化が違う」「価値観が異なる」「不衛生」「設備が立ち後れているだけ」「野蛮」などと一笑に付し、ひとごとにしてしまうのは簡単だ。だが、日本だってほんの少し前まで、似たり寄ったりの部分があった。

旧国鉄時代の鉄道車両内に設置されていたトイレは、非常にシンプルな構造だったという。いちおう個室にはなっていたが、便器に出したモノは穴からそのまま線路に落とす仕組みだったのだ。高度経済成長期に車内のトイレは徐々にタンク式に置き換わり、1980年代を迎える頃には家庭の水洗トイレと変わらない設備が主流になったようだが、公衆トイレも含め、いまよりも薄汚れたトイレは世間に数多く存在していた。

仮に1980年を起点にして考えてみると、この42年の間に日本人の潔癖さや排泄行為を「穢れ」と捉えるような感覚は、急激に過剰になったように思う。

もはや判断の軸は「公衆衛生」や「美観の保持」といった実利性、合理性の話ではなく、「汚い(と自分が信じて疑わない)モノは見たくない、知りたくない」「自分の価値観に合わないものは絶対に認めない」といった狭量な価値観に基づく感情論であるとか、「本当に汚いかどうか、社会や人体にマイナスの影響があるかどうかではなく、自分が汚いと感じるものはすべて浄化しないと気が済まない」といった神経症的な心性に移ってしまったのではなかろうか。

最初は「汚いよりは、きれいなほうがいいよな」程度の感覚だったのかもしれない。しかし現代に至っては「すべてが整っていて、完全に清潔で、無菌でないと絶対に許せない」という“潔癖モンスター”へと豹変ひょうへんしてしまったのが、いまの日本人の紛うことなき一面とはいえないだろうか。