うっかり「お漏らし」した人がいても「どんまい!」と返したい

たった一回の「お漏らし」であっても、人生に多大な悪影響を与え、しばらくは復活できようなダメージを与えてしまうのだ。これが仮に国会議員の答弁中や、総理大臣の所信表明演説中、企業の記者発表の場における社長スピーチなどの最中、マラソンなどオリンピック競技の途中だったら、間違いなく大ニュースとなる。ネットではその日最大級の話題となり、一生「お漏らし議員」「脱糞総理」「大便社長」「大便ランナー」などと呼ばれ続けることになるかもしれない。かの徳川家康は、三方ヶ原の合戦で武田信玄に完敗した際、脱糞しながら逃走したといわれているが、それがいまでも語り草になっているほどなのだから。

しかしながら、「漏らす」という状況は、それほどまでに重大なことなのだろうか。もちろん、漏らさずに済むなら、それに越したことはない。ただ、体調のことなので、どんなに気を張っていても急に便意を催してしまうことはあるだろう。そこで運悪くトイレに間に合わず、漏らしてしまったとしても、やむを得ないことではないか。当人は「失礼しました!」、周囲の人間は「どんまい!」「気にしないで!」と穏便に済ませばよいだろうに。

排泄行為をしない人間など、この世にひとりもいない。みんな小便、大便を身体から排出する。自らすすんで漏らしている人などまず存在しないのだから、うっかり漏らしてしまった人を責めたり、揶揄やゆしたり、いつまでも面白がって話を蒸し返したりするのは悪趣味だと、私は思う。ましてや、人生を大きく毀損きそんするほど追い詰めるなんて所業は、筋が悪いとしか言いようがない。便を漏らしてしまう程度のことで精神が不安定になったり、人間関係が壊れたり、社会的な立場が揺らいだりするとしたら、これほど理不尽な社会はないだろう。

床に散乱するトイレットペーパーの芯
写真=iStock.com/Borisenkov Andrei
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排便は小説のモチーフにもなっている

筒井康隆の作品に「腸はどこへいった」という話がある。主人公の男子高校生はあるとき、自身が3カ月も排泄をしていないことに気付く。そこで、以前腸捻転の手術を自分に施してくれた親戚の医師のところへ行き、相談をする。医師は「大便をしないで済むのは便利だから、このままでいいのでは」と助言するも、主人公は「排泄がしたい!」と主張する。

医師が診断したところ、主人公の腸は「クラインの壺」と呼ばれる表も裏も境界線もない不思議な形になっており、そのため異空間に大便が行ってしまったのだという。そこでクラインの壺状態から腸を通常の位置に戻してもらい、家に帰ったところ……なんと主人公の家は大量の大便に覆われていた、という物語だ。なかなかすさまじいインパクトを持つストーリーである。

想像するに、筒井氏は排泄の重要性、そして日常性を重々承知しているからこそ、このような奇想天外なストーリーを思いついたのだろう。もしかしたら「便を漏らさないで済む身体を手に入れたらどうなるか……」といったことを考えたのかもしれない。いずれにせよ、排便がモチーフになっているこの作品の背景にあるのは、人生は思いのほか排便事情に左右されてしまう、という現実である。誰にとっても身近な事柄でありながら、とかくクチにすることがはばかられる話題。だからこそ、小説のモチーフになってもインパクトがあるし、誰もが面白く読んでしまうのだ。