「男」たちの絶望を想像し、理解してほしい

本書の第1章の冒頭で、次のように記した。

弱者男性たちの人生の核心にあるのは、次のようなものではないか――どこにも救いがなく、惨めで、ひたすらつらく、光の当たらない人生がある。「男」たちの中にもまた、そういう絶望がある。せめてそのことを想像してほしい。べつに同情してくれとは思わない。助けてくれなくてもいい。ただ、想像し、理解することくらいはしてほしい。そういう苦悶くもんの声。声にならない叫び……。
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どうか、よくある「多数派の男性は誰もがすべて等しく強者である」「男たちは男性特権を享受しているのであり、不幸であるはずがない」等々という乱暴で粗雑な言葉によって物事を塗りつぶさないでほしい。

誰々よりはマシ、誰々に比べれば優遇されている、といった優越や比較によって男性問題を語らないでほしい。たしかに構造的な非対称はある。しかし、その上で、比較や競争の対象ではなく、たんに不幸なものは不幸であり、つらいものはつらいのだ。そうした単純な生活意識が「弱者男性」問題の根幹にあるだろう。

「男」から抜け出すことは許されていない

そうした苦悶の叫びは絶対的に肯定されるべきものである、とぼくは考える――ただし、「異性にわかってほしい」という性的な承認論や、「国家や民族によって自分の存在を支えてほしい」というナショナルアイデンティティによってそれを解決するべきだとも思わない。

なぜならここには、比較対象としての弱さではなく、絶対基準としての弱さがあるからだ。

誰かとの比較や優越によって強い/弱い、幸福/不幸を判断されるのではなく、生存そのものとして、惨めで、尊厳を剝奪された、どうしようもない人生がある。絶対基準の〈弱さ〉がある。

せめて、その事実を想像してほしい。それを否定されたら、あとはもう――。

本当は「男性」という属性すら副次的なことで、あくまでも個々人ごとの問題なのかもしれない。しかし、「男」として生まれてしまった以上、男性という属性から解き放たれ、抜け出すこともまた許されていないのである。

では、弱者男性とは、これまで無視されてきた新たなマイノリティのカテゴリーである、ということなのか。