政治的対立のいずれにも入ってこない存在

ただし、それらの基準がはっきりと区別されておらず、論者ごとに「弱者」の定義が異なるため、議論や論争をしても中々うまく話がかみ合わない。喧嘩ばかりになって、憎悪や誤解がインフレしていく。「弱者男性」についてはそうしたケースがまだまだ多い。マジョリティでもなく、マイノリティでもなく……。

ここでいわれる「弱者男性」とは、必ずしも、社会的な差別の犠牲者のことではないだろう。あるいは、社会的に保護(包摂)されず、一般市民の標準的な生活から排除されてしまった人々とも限らない。

片方には、従来の国民国家が前提としてきたマジョリティとしての「国民」や「市民」が存在する。

他方には、「国民」や「市民」から排除され周縁化されたマイノリティ的な人々が存在する。マイノリティの人々は、各々の属性に基づき、個別的あるいは集団的なアイデンティティ政治(社会的不平等の解消と各々の差異の承認を求める政治)を行う。

一方、ここでいう弱者男性とは、これらの「国民・市民(マジョリティ)VS被差別者・被排除者(マイノリティ)」という政治的対立のいずれにも入ってこないような存在のことであると考えられる。

「弱者競争」をしているわけではない

弱者男性たちは、社会的に差別されたり排除されたりしている、あるいは政治的な承認を得られない――というよりも、それらの二元論的な議論の枠組みそのものから取り残され、取りこぼされ、置き去りにされているのだ。

それゆえ、彼らはアイデンティティの承認をめぐる政治の対象にもならないし、福祉国家による経済的な再分配や社会的包摂の対象にもなりにくい。

注意しよう。これは、いわゆる「弱者競争」(弱者オリンピック)の話ではない。あるいは、「社会的弱者の声」にすらならない究極の弱者とは誰か、という「サバルタン」の理論の話でもない。誰が真の犠牲者であるのか、もっとも悲惨な被害者は誰なのか……そうした「弱者競争」によってかえって見えなくなる領域がある。

もう少し繊細で複雑な語り方によってしか見えてこない、個人の実存(差異)と社会的な制度・構造の狭間のグレーゾーンがある、ということだ。

男性たちの「弱さ」の問題はそうした曖昧で境界的な領域、すなわち「残余」「残りのもの」の領域に存在するのではないか。