線引きをすること自体が残酷な暴力になる
やはり、それも少し違うだろう。
しばしば指摘されるように、「弱者男性」と言っても、発達障害や精神疾患の傾向のある人、「軽度」の知的ハンディのある人、虐待やイジメの被害者など、そこには様々な問題が交差的に絡み合っているはずだ。
境界的な人々、グレーゾーンの人々もたくさんいるだろう。
そうしたグラデーションに対して、「ちゃんとした理由があるからあなたはマイノリティ男性、それ以外は男性特権に居直った無自覚な男性たち」とはっきり線引きしようとすることは、やはり問題の先送りにしかならない。
たとえば障害者介護の経験からぼくは以下のことを学んだ。それは、個人的な生活や実存のレベルで考えるかぎり、比較や優越はもとより、そもそも安易に他者を線引きするべきではない、線引きしてはいけない、ということである。
曖昧で境界的な領域にはっきりと線を引くこと自体が一つの残酷な暴力であり、支配になりうるからだ。線を引いて、支配する。それは差別の定義そのものである。
「ガラスの地下室」からの叫び
本当にもうダメだと思って、惨めで、むなしく、悲しく、生まれてこなければよかったとしか感じられなくなったとき、ワラをもつかむ思いで手を伸ばすと、恋愛によって異性から救ってほしいとか、有名人になって一発逆転しなきゃとか、排外主義者やインセルやアンチ・フェミニズムの闘士に闇落ちするとか――それらの貧しい選択肢しかない、ということ。そうした選択肢しか残されていない、と感じられてしまうこと……。
たとえばトイアンナは、先に引用した記事で、ある男性がブログで書きつけた「ガラスの地下室」という言葉を紹介している(もともとはワレン・ファレルが『男性権力の神話』という1993年の書籍で当時のアメリカの状況を反映して用いた言葉)。
女性がある程度以上の社会的地位へ上がれないこと(にもかかわらずその障壁が存在しないとされていること)を「ガラスの天井」と呼ぶが、これに対し、男性たちは、いったん弱者男性になると、ガラスを踏み破って「地下室」に転落して、誰にも気づかれないままになってしまう。それが「ガラスの地下室」である。
ぼくたちは今、そうした「弱者男性」たちの「地下室」の暗黒に、何かの光を差し込ませるための言葉(思想)を必要とし、そのための多様な実践を必要としているのではないか。