男性として生きることと女性として生きること、どちらが幸せなのか。批評家の杉田俊介さんは「女性と比べて男性には制度的な特権があると認識されている。しかし、社会から取り残されている『弱者男性』という存在がいることも理解してほしい」という――。

※本稿は、杉田俊介『男がつらい!』(ワニブックスPLUS新書)の一部を再編集したものです。

鏡に手をついてうなだれる男性
写真=iStock.com/MarinaZg
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「男らしさ」に支払う多大な努力とコスト

まず、最初に言えるのは、一般的な多数派の男性たちの中にも、被抑圧、脆弱ぜいじゃく性、周縁性などがある、ということである。

近年の男性学では、次のような考え方がなされる(ここでは、多賀太『男らしさの社会学 揺らぐ男のライフコース』世界思想社、2006年、などを参照した)。まず、女性に対して男性は社会構造的に様々な優位にある、という認識がデフォルトとなる(A)。ただし、そこにはいくつかの水準がある(B)。

(B・1)「男性の制度的特権」……集団としての女性の犠牲によって、集団としての男性は、制度的な利益を享受している。
(B・2)「男らしさのコスト」……制度的特権を確保するために、男性たちは、抑圧的な「男らしさ」の規範に従うという多大な努力とコストを支払わねばならない。
(B・3)「男性内の差異と不平等」……男性の中にも様々な立場の人がいて、より少ないコストで多くの利益を得る男性もいれば、多くのコストを支払いながらほとんど利益を得られない男性もいる。

十把ひとからげの批判に対する違和感

これらの水準を区別しつつ、男性たちもまた様々なアイデンティティの危機や揺らぎ、葛藤を経験していることを論じていくのである。これが近年の男性学の標準的な考え方だ。つまり、(A)の水準「だけ」を見て、男性集団一般を批判し、(B)の水準の区別や違いをまったく見ようとしないこと、そうした十把ひとからげの批判に対し違和感を覚えざるをえない男性たちがいる、というわけである。

こうした状況の中で、ネットの世界を中心に、あらためて「男性弱者」たちの存在が注目されるようになった。

そこでは、こんな書かれ方がされる。男性たちは加害者・差別者・抑圧者である、と批判され、反省と行動を求められる。しかし、男性たちの中にもまた様々な「弱者」がいる。にもかかわらず、その存在に十分な注目が集まっておらず、支援や手当もなされていない……。