もちろん私は、受験勉強そのものは否定しない。

より良い結果を出すため、懸命に勉強するのは何ものにも代えがたい経験である。「何かを必死で頑張る」という経験は人を大きく成長させる。私も学生時代は机にかじりついて勉強した。

問題なのは、自分の意志でなく誰かに言われた通りに大学や学部を選ぶことだ。そして、自分の志望や将来と関係ない大学や学部に入るために勉強することだ。

どんなものであれ、自分自身で目標を決め、それに向かって努力することをしなければ、主体性や自信は育たないし、潜在能力を伸ばすこともできないのである。

正解のない問題に解答を見つけられるか

また社会に出て直面するのは、試験のように正解のはっきりした問題ではなく、正解のはっきりしない問題だ。ときには正解のないことだってある。

永守重信『大学で何を学ぶか』(小学館新書)

それに、どこかに1つの正解があり、その正解に従ってやっていれば何とかなるという時代はすでに終わった。企業でいえば、売れている他社製品を真似したような商品を出しても負けるだけなのだ。

入試を突破するためのテクニックだけを身につけたような人がいざ社会に出て、正解のわからない問題や先の見えない課題にぶつかったとき、果たして自分の力で解決していけるだろうか。たとえすぐに結果が出なくても、あきらめずに「できるまでやる」という強い心を保てるだろうか。私は難しいと思っている。

おとなの言う通りに小さな頃から塾に行って知識を詰め込んできた人は、誰かの言う通りに行動することには慣れている。だから会社に入ってからも、上司の指示通りに仕事をこなすだけになってしまう。

こうした指示待ち族の蔓延が、リーダー不在の日本社会をつくり出しているのではないだろうか。

若い人の可能性の芽を摘む「偏差値教育」

偏差値教育の一番の問題は、18歳時の偏差値や入試の結果で若者の人生が決められてしまうことだ。

残りの人生は約80年もあるのに、有名大学に入ったかどうかで「お前は新幹線の人生」「お前はローカル線の人生だ」と決めつける。結果的に一握りのエリート以外は自信を失くしてしまう。

若い人の長い人生を偏差値や入試の結果で分類するなど、人生100年時代といわれる現状に合っていないし、夢も希望もない話だ。

そうやって若い人の可能性の芽をんでしまうのが、偏差値教育の大きな問題なのである。