この年の五月に、京都で薩摩藩主導による四侯会議が開かれる。国政進出を目指す雄藩と称された有力諸藩を代表し、薩摩・福井・土佐・宇和島藩の四侯が京都に集結したのだ。
その政治力を誇示することで、最終的には国政の決定権を将軍から諸侯会議に移すことを慶喜に迫る狙いが秘められた会議であった、要するに、幕府の消滅を目指した政治運動に他ならない。
同じ五月、薩摩藩に出入りしていた小三郎は、議会制度の導入により公議・公論を国政に反映させることを趣旨とする新政体案を、四侯のうち薩摩藩の島津久光、福井藩の松平春嶽に建白した。
幕府にも建白しているが、立案にあたっては福沢諭吉のベストセラー『西洋事情』が参考にされた。西洋の政治や経済などの解説書である『西洋事情』ではアメリカの二院制議会の実態がわかりやすく紹介されており、これを参考に新政体案を提案したのである。
脚光を浴びた小三郎の改革案
この建白書七箇条では三権分立の思想のもと、選挙で選ばれた議員から構成される議政局(上局と下局)の創設が説かれている。
上局には公卿や諸大名、旗本から選挙で選ばれた三十人の議員が、交代で首都に詰める。下局には道理に明るい者として諸国から数人ずつ選挙で選ばれた計百三十人の議員が、三分の一ずつ首都に詰める。
議政局で決議されたことは朝廷の許可を得て国内に布告されるが、朝廷が反対した場合は議政局で再評議の上、先の決議が至当と判断されれば朝廷に届け出て、そのまま布告する。
議政局の決議は朝廷よりも勝るとしたが、これは『西洋事情』で紹介されたアメリカの政治制度がモデルである。上院・下院で成立した法令は大統領が署名することで公布されるが、署名を拒否されても両院で三分の二以上の賛成があれば公布されるシステムをそのまま取り入れたものだった。
小三郎の政体案は大いに関心を呼ぶ。幕府に提出された建白書が諸藩の間で筆写されたほどであった。それだけ、幕府消滅後の政治体制への関心が高まっていた。
大政奉還をめぐる各藩の思惑
小三郎としては、自分の政体案が慶喜や四侯の間で議論され、念願する議会政治への道筋が開かれることを望んだが、目論見通りにはいかなかった。慶喜は国政の決定権を諸侯会議に移行させることに応じず、薩摩藩の目論見が挫折したからである。
四侯会議の失敗を受け、薩摩藩は長州藩との連合により、慶喜から征夷大将軍職を剥奪して諸侯の列に格下げした後、朝廷のもとで開かれる諸侯会議で国家の大事を決めることを目指した。そのためには武力発動も辞さないことも覚悟する。