上田藩に戻ると藩の軍制改革に携わるが、切迫する時局への危機感から国事への関心を強める。元治元年からは藩命により開港地横浜で武器弾薬の調達にあたる一方で、イギリス公使館付武官との交流を深め、英語そして英式兵制を学んだ。

小三郎は同時代人の福沢諭吉のように洋行の機会には恵まれなかったが、長崎でオランダ軍人、横浜ではイギリス軍人と直接話す機会を得たことは実に貴重だった。軍事知識はもちろん、西洋社会に関する知識を深めることができたからである。後に幕府などに建白することになる新政体案を練り上げる素地ともなった。

慶応二年三月には、卓越した語学力を活かして『英国歩兵練法』(五編八冊)を刊行する。イギリス陸軍の歩兵操典を翻訳したものだが、薩摩藩など英式兵制を導入する藩が増えていたこともあり、小三郎は一躍注目されるようになる。

薩摩藩を英式兵制で強化

折しも、第二次長州征伐がはじまろうとしていた。六月に開戦となるが、幕府は苦戦し、敗色濃厚となる。危機感をさらに強めた小三郎は、イギリスなどをモデルとした軍制改革、身分制度に捉われない人材の登用を求める建白書を幕府と上田藩に提出し、憂国の士として政治活動にも踏み出した。

その一方、京都で英式兵制を教授する兵学塾を開いたが、講義内容は政治論にまで及んだ。他藩の依頼に応え、英式兵制に基づく調練も指導している。

上田藩士でありながら、藩の枠を越えた活動を開始したのだ。そして藩の帰国命令にも従わず、在京を続ける。帰国しては、国事に奔走できなくなるからである。

そんな小三郎に特に注目したのは、英式兵制で軍事力強化をはかる薩摩藩だった。京都藩邸内に創設した兵学塾への出講そして英式調練の指導を依頼した。小三郎が手塩に掛けたことで薩摩藩の軍事力はレベルアップした。戊辰戦争でそれは証明される。

鳥羽・伏見の戦い(写真=Unknown author/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

かたや龍馬の方だが、薩摩藩に保護され、その意を受けて長州藩との交渉役などを勤めた。そうした活動がいわゆる薩長同盟へとつながる。

その後は土佐藩からの委託を受け、その外郭団体としての顔を持つ海援隊を率いたことはよく知られているだろう。ただ、小三郎に比べると、藩のバックアップを受けて活動している観は否めない。

議会制度の導入を訴えて奔走

小三郎や龍馬にとり運命の年となる慶応三年は大政奉還により幕府が消滅し、天皇をトップとする新政府が誕生した年だが、大政奉還の半年近く前から、幕府に代わる新政体への移行が議論されていたことはあまり知られていない。