ハエがひっきりなしに飛び回る

ほどなくして、私は自分の活動の原点ともいえるゴミ問題に手を付けることになります。遺跡でのゴミ拾いを活動としている団体にもかかわらず、施設内がゴミだらけという矛盾。ハエがひっきりなしに飛んでいる中で暮らすことは苦痛で、子どもたちの衛生環境のためでもありましたが自分のためにもこれだけはなんとか早期解決したかったのです。

酷暑期といわれ1年で一番暑いとされるカンボジアの4月、日中40度を超える炎天下で、1万平米もある敷地に散乱するゴミをかき集め、分別し、燃やしたり埋めたりしました。まるでプノンペン生活で失った自分を取り戻すかのように黙々と取り組んでいると、やがて数名の子どもたちが手伝ってくれるようになりました。

写真=メアス博子
施設を掃除する子どもたち。

命令して手伝わせるよりも自発的に集まってほしいという願いがかない、作業中の会話を楽しむことでみんなとの距離も徐々に近づいていきました。子どもたちは、強制されるのではなく自主的に参加しはじめたこともあってか、徐々に歯車がかみ合うように協働がなされていきました。結果的にまとまりのなかった子どもたちの気持ちをひとつにし、衛生観念まで変化させるきっかけとなりました。

一方で、缶や瓶は売れるということを子どもたちに教えてもらい、敷地内のゴミ箱に売れるもの用を設置するというルールもでき、リサイクルの収入でおやつを買うこともできました。

施設の習慣として朝夕2回の清掃が定着した

子どもたちがまだ知らないことは何なのかを探り、彼らの考えも聞きながら改善していくことが私の大きなやりがいになりました。これが夫とは違う私のやり方でした。今では施設の習慣としてすっかり定着した清掃は、気温の高い時間帯を避けて朝と夕方の2回行われ、広い敷地は清潔に保たれています。

施設を掃除する子ども。(写真=メアス博子)

あれから20年以上が経ち、あのときの子どもたちは今や自分の子どもを連れて施設に手土産を持ってくる親となり、卒業生の1人は団体代表を務めるまでになりました。昔のスタッフのほとんどは現場を去りましたが、子どもたちと共に根気強く私に付き合ってくれた1人が現在の施設長で、奥さんも施設スタッフとして働いてくれています。

創立時には高床の小屋が一軒だけだった広い敷地には複数の建物が新築され、庭もある緑豊かなみんなの家になりました。コロナ禍前に受け入れていた年間数百名を超える施設見学者からも驚きの声が上がるほど清潔で安全な環境を実現しました。

そして私はというと12年前に離婚し、息子の養育と団体の運営をゆだねられるようになっていました。

写真=メアス博子
卒業生と交流する子どもたち。