経済孤児と向き合うということ

子どもたちは、田舎に親がいるけれど経済的な理由で養育が困難であるとして施設に入ってきた経済孤児と呼ばれる子たちで、内戦による戦災孤児の時代はすでに終わっていました。団体スタッフには数名のカンボジア人男性がいて全員私よりも年上でしたが、内戦後の混乱もあり一般的な学校教育はほとんど受けていませんでした。

子どもたちは、敷地内にある1つの井戸で洗濯、水浴び、料理の準備などを済ませ、1つだけあったタライで洗濯もすれば調理前の魚も洗っていました。水回りは整備されておらず洗剤や残飯が混ざって、ハエが無数に飛んでいました。朝はおかゆと干し魚、昼と夜はほとんど具のない塩辛いスープでご飯をたくさん食べてお腹を満たし、食事中にハエが飛び交うテーブルの上をさらに犬が通り過ぎていくというありさまに仰天しました。

育ち盛りの子どもにバランスのよい栄養を与えよう、もっと衛生的な環境を整えようという気がスタッフにはないように見えましたが、知識がないだけで悪気もないことにあとで気づきました。それとともに気になったのは、一緒に暮らしているはずの子どもたちの気持ちにまとまりがないように見えたことでした。

それらを確認できただけでも週末しかいない夫に代わり、私ができそうなことは確実にあると感じました。まずは子どもたちの名前を覚えるため顔写真を撮影し、名前を書き込みアルバムにしました。

違和感の正体

そして、夫に電話して、子どもたちの1カ月の食費を2倍にしてもらい、栄養のある食事を出すことにしました。食費のことは承諾してくれたのですが、「子どもたちはきつく言い聞かせたり、力で抑えないと言うことを聞かないし、君みたいに優しくしているとなめられるから気をつけて」と忠告されました。

それを聞いたときに子どもたちが夫にだけやけに丁寧なあいさつをしていた理由が分かったような気がして、電話口では「分かった」と言いつつ、彼とは違うやり方で子どもたちと向き合うことを心に決めていました。

今から40年以上前、彼が10代の頃カンボジアはポルポト政権下で人々は強制労働の日々、少しでも反逆心があると思われるだけで命の危険にさらされる気の抜けない生活に耐えていた、と彼から聞かされたことがあります。

ポルポト政権下の厳しい時代を生き抜き、難民として日本に渡って異国で学校教育を受けることとなり、どれだけ大変な日々だったかと思います。

それに加え当時の日本は外国人、とりわけ東南アジアの人に対してはあからさまに排他的で差別的な社会だったので、嫌な思い出もたくさんあると聞きました。

物事の理解も早く運動神経も抜群で、負けん気の強さは人一倍の彼が出身国のみを理由に差別されたのはどれだけ悔しかっただろうと思います。

自分がそのようにして意地と努力で突き進んできただけに、他人に対してずいぶん厳しい面が目立つ人でした。

子どもたちをとことん突き放す彼のやり方と、小さいことを見逃さずに向き合って解決していきたいという私の考えは、プロセスが違っても自立を促すという着地点は同じだったのかもしれません。でも私にとってはそのプロセスこそが重要でした。