カンボジア人の夫との出会い
私がカンボジアの首都プノンペンで暮らし始めたのは1999年でした。日系企業で管理職を務めるカンボジア人の夫と生後10カ月の息子、そして住み込みのメイドさん3人とドライバーさん1人との共同生活でした。その2年前にはラナリット第一首相とフン・セン第二首相の武力衝突が起きたことも記憶に新しく、今振り返ってみるとそんな混沌とした状況にもかかわらず乳児だった息子とよく飛び込んだものだなと思います。
夫は少年時代に内戦を逃れ来日した元インドシナ難民で、中学校から大学院までを日本で修めていましたが私とは日本での面識はなく、プノンペンで起きた武力衝突のわずか数カ月前に私が大学の卒業旅行でカンボジアを訪れた際に出会いました。
彼はプノンペンから300キロ余り離れた古都シェムリアップ州を活動拠点とするNGO団体の代表を務め、児童養護施設運営、学校建設、アンコールワットなどの遺跡でのゴミ拾いを主な活動としながら自身はその活動資金の調達と生活のために働いていました。
12歳も年上で仕事もバリバリとこなし、日本語も堪能だった彼は、大学生の私には自信に満ちあふれた頼もしい人物に映りました。その後、彼が来日して私の両親に会ったときにも努力の末に獲得した高い日本語能力と人懐っこい性格で2人の心をつかみ、国際結婚のハードルを簡単に越えてしまったのでした。
3人のメイドさんやドライバーさんのいる暮らし
私が息子と共に移住した頃、夫は治安の悪さから自分の勤務時間中に私が息子と外出することをとても心配していました。実際に近隣で発砲事件が何度もあり、交通事故の現場から何事もなかったように立ち去る車を目撃したこともあったので、日本にいるときと同じ感覚を持っていてはいけないと繰り返し言われました。3人のメイドさんやドライバーさんをそばに置いてくれたのは、たとえ家の中でも私と息子を2人きりにしないという配慮でした。
そのため、私が夫の不在中に外出できたのはミルクやおむつの買い出しぐらいで、それも日本なら徒歩で行けるような距離をドライバー付きの車で移動するというものでした。帰り道にカフェにでも立ち寄って息子と外の空気を感じながらゆっくりしたいと思っても、ドライバーさんが待ってくれていると思うとなかなかそうもいきませんでした。
専業主婦といえば、家事、育児に忙しいイメージですが、私の生活はそれとは全く違い、むしろ何もすることがありませんでした。なにしろ3人ものメイドさんが掃除、料理、洗濯、そして息子の世話まで全てやってくれるのです。
そんな毎日に我慢しきれず自分で掃除や洗濯したことが夫に見つかると、「彼女たちの仕事を取ってはいけない。君の行動が彼女たちを怠惰にする」と叱られました。反論したくもなりましたが、彼がそう言うのも私や息子の安全と不自由のない暮らしを考えてくれてのことだと思うと言い返すこともできませんでした。幼い息子がふさぎがちな気持ちを慰めてくれたこともあり、私の中で芽を出そうとしていた違和感を無意識に摘み取っていたのかもしれません。