ボトムを上げる教育モデルは、先進国では機能しない

明治期の日本のスローガンである「富国強兵」は昭和初期まで続き、戦後は「強兵」が外れて「富国」だけになった。そして日本は目覚ましい復興、高度経済成長、バブル経済と、経済的栄華を極めていく。

だが、これは欧米、特に戦後は米国から、大量生産・大量販売のノウハウを輸入した結果だ。つまり、すでに西洋で確立していたものを輸入して身につけた明治期のマインドやシステムと、本質的には何も変わっていないのである。

確立された「正解」があり、それにどれだけ早くアジャスト(適合)するか。明治から昭和にかけての日本は、マクロで見れば、この一点のみで勝負していたといっていい。

こうしたマインドとシステムは公教育にも通底し、学校では「すでにある正解」に早くたどり着く力ばかりが鍛えられた。それも一律的に行なわれるため、授業は学力の低い子に合わせて進められることになる。

トップを伸ばすのではなく、ボトムを上げる。この教育モデルは、国民全体のレベルを引き上げる段階の発展途上国ならまだしも、先進国では機能しない。

だが、日本は先進国の仲間入りをしてもなお、このモデルを引きずってしまった。「自分で考えて自分なりの答えを導く力」は置き去りにされたまま、「どれだけ知識を詰め込むか」で勝負する受験戦争システムが、すべての教育機関を包摂する形ででき上がってしまったのだ。

「知識がある=頭がいい」という固定観念から脱却せよ

イギリスの名門私立高校で教えている日本人教師が、イギリスでは「知識がある子=頭のよい子」とは見なさないのだと、コラムに書いていた。

写真=iStock.com/miljko
※写真はイメージです

知識の豊かさも評価はされるのだ。校内では定期的にクイズ大会が開催され、優勝者は表彰される。しかし他にも数百に及ぶ表彰対象があり、クイズ大会での優勝は、演劇や奉仕活動、軍事活動など多くの分野の1つにすぎない。

だから、「知識がある子=頭のよい子」という価値判断はないのだ、と。

また、イギリスのエリート層は概して知識量が少なく、たとえばアメリカ独立やフランス革命の年号など知らなくて当然といった風情だという。一方で、今の世界情勢に大きな影響を与えた第一次、第二次世界大戦についてはめっぽう詳しかったりするというのだ。

そして知識が少ないはずなのに、彼らと議論をしていると、ギリシャ神話の一節やカエサルの名言、シェークスピアの決め台詞などが、説得力のあるメタファー(暗喩)として絶妙のタイミングで飛び出してくる。

なるほどと思った。真の頭のよさとは、知識を使って考え、現在や未来に役立てることができる能力である。そのために使えない知識をむやみに溜め込んでも、「よく知ってるね」程度の話。エリートに必須の「頭のよさ」とは見なされないのである。