名門大学には、「学閥」という強固なギルドが存在
かつて高学歴のエリートたちは、社会に出てからも同じ大学出身同士で連携し、協力し合ってきた。名門大学には、「学閥」という強固なギルドが存在した。名門大学に行くのは、社会に出てからも役立つ人脈づくりのためという側面も強かった。
もっとも強固だったのは東大法学部ギルドだ。それが圧倒的に機能していたのは法曹界ではなく、行政である。役所が、いわば東大法学部卒ギルドの元締めのような存在だった。
そもそも明治以来のキャッチアップモデルにおいて、近代国家そのものをはじめとして、いろいろな制度をつくり運用する「官僚」を養成することが東大法学部のミッションだったので、ある意味、当然の結果である。
たとえば、ひと昔前まで、財務省のキャリア官僚といえば東大法学部卒と決まっていたものだ。その後東大経済学部が少し増えるが、日銀も似たり寄ったりである。
その下に政府系金融機関、興長銀(※2)、都市銀行と続き、これらの金融機関もこれまたMOF(モフ)担(※3)といわれる東大法学部卒ギルドが支配する構図だった。
しかし、今ではそうとは限らなくなっている。役所の没落とともに、東大法学部ギルドが完膚なきまでに崩壊したからだ。
これは、東大法学部卒の人々にとってなかなかに厳しい状況だ。
かつては東大法学部さえ卒業すれば、キャリア官僚というコースが見えた。「東大法学部卒」というラベルがあれば、実社会のなかの東大法学部ギルドにすんなりと入ることができたのだ。
なのに、今やそこにあるギルドはかなりイケていないか、ギルド自体が存在しなくなっているか、である。
それが崩壊した今、グローバルクラスの才能も野心もある人は、世界で勝負することを選ぶかもしれない。これまで県大会や国体で勝負して満足していたのが、いきなり世界選手権に出場することになったようなものだ。
日本というローカルを飛び越していきなりグローバルで勝負するという道は、「東大法学部卒財務省→キャリア官僚」というレールがあったころには見えなかった。
ギルドがもたらしてくれた安心と安定が失われた代わりに、人生の選択肢が多様になったのである。ギルドの崩壊には、そんな意味も含まれている。いいことではないか。
求められるのは「合格歴」ではなく、真の学歴としての「高学歴」
ギルドを基盤として生きるというモデルは、日本だけでなく、かつては世界中にあった。たとえばアメリカの法曹界は、今でもかなりハーバード大学ロースクールのギルドだ。
アメリカのテレビドラマ『SUITS(スーツ)』(※4)を見たことがある人は、きっとピンとくるだろう。
しかし、そういうギルドは世界的に消滅しつつある。「○○出身者同士、なかよくやろう」という発想自体が、世界的に時代錯誤になったのである。
現にハーバード大学やスタンフォード大学の「MBAギルド」なんかは着々と崩壊している。私はスタンフォード大学でMBAを取ったが、いつの間にかギルド的なものは跡形もなくなっていた。
まあ、破壊的イノベーションの時代、起業の時代になると、ギルドという閉鎖的でスタティック(静的)な仕組みはもたなくなったのだと思う。
私の周囲を見渡しても、はなからギルド的なつながりなんてアテにしていない人のほうが、自由で楽しそうに生きている。
成毛さんが後で生々しく話してくれるが、学歴にはシグナルとしての意味がある。人間の能力は外からは簡単に見えないので、人を採用したり、仕事のパートナーを決めたりするとき、ベンチャーに出資するときに、学歴というシグナルがものを言うのは当然である。
だから学校に行くことが無意味だとは決して言わない。むしろ知識集約化の時代には、知力、本当の意味での頭のよさを鍛える上でも、それをシグナリングするという意味でも、学校という場所は大事になっている。
しかし、従来の日本の学歴のように、そこに入るための一律ペーパーテストの点数を取る能力をシグナリングしている「合格歴」の意味は小さくなっていく。濁点の位置違いだが、今、求められているのは真の学習歴としての「高学歴」なのである。