父親の死

2015年夏。澤田さん夫婦はお盆に実家に帰省。数日滞在し、自宅に戻ってから2日後のことだった。父親自宅で意識をなくしていることに気付いた母親はなんとか隣(父親の実家)に助けを求め、父親の甥が救急車を呼んだ。

父親は脳内出血を起こしていた。連絡を受けた澤田さんがすぐに病院に駆け付けると、幸いにも父親は一命を取り留めた。1カ月後に退院し、老健(介護老人保健施設)に転院。だがその約2週間後、澤田さんが面会に訪れている時に、父親の病状が悪化。発熱していることが判明したため、再び病院へ移送。調べると、肺炎を起こしていることが分かる。

それからというもの、澤田さんは父親の病室に泊まり込み、そこから都内にある金融系の会社へと出勤した。「介護休暇を取るより、半日でも勤務したほうが、後々業務に停滞をきたさない」と上司に諭され、澤田さんは半日有給休暇で対応。もともと40日以上あった有給休暇は、9月には9日を切っていた。

通勤するだけで2時間近くかかったが、おかげで毎日、「お父さん行ってきます」「お父さんただいま」「お父さんおやすみ」と声をかけることができた。

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主治医から、「厳しい状況です」と言われた日、親戚に声をかけ、集まってもらうことに。最後まで意識がはっきりしていた父親は、親戚たちが来る前に自ら、「オムツを替えてほしい」という合図を示し、親戚たちに不快な思いをさせないよう配慮。自分は今にも命がついえそうな状況にもかかわらず、周囲に気を配る父親の姿に、澤田さんは胸を打たれた。

ところが、1日に1回の母親の面会時、父親は点滴をしていないほうの手で母親の頭を叩いた。母親は、「なぜお父さんは私を叩くのかしら? なぜ?」と不思議がっていたが、澤田さんはこう思った。

「ずっとそばについていないことへの不満なのか、(母と駆け落ち婚をしたことで)前妻とその妻との子を捨てることになってしまった憤りなのか、私にはわかりませんが、母に対する何らかの不満が父の中にあったのだろうと思いました」

最期の日の朝、母親は季節外れで上下ちぐはぐな衣服を身にまとい、病室に来て5分もすると、「雨戸を締めに帰る!」とわけのわからないことを言い始める。

「お父さん、このまま逝っちゃうかもしれないんだよ?」と澤田さんが諭しても、「それでもいい! 家に帰る!」と言って聞かない。仕方がないので、いとこが母親を連れて帰ったが、病室を出て20分も経たないうちに父親の呼吸がおかしくなり、急いでいとこに連絡。再度母親を連れてきてもらった。

横たわる父親の手を母親がとると、2人は見つめ合った。母親は、「お父さん、お父さん」と何度も繰り返し声をかける。その声は澤田さんが今まで聞いたことのない、とても穏やかで優しいものだった。

「父の目に最後に映ったのは、母の顔。父の顔は穏やかでした。共に生きる人生を選んだ2人が、それを最期まで全うしたことを互いが認め合った最期だと思いました」

2015年10月。父親は85歳の生涯を、妻、娘、娘の夫、甥に見守られて閉じた。