あなたもひとごとではない
死を愛する傾向などというと、自分とはまったくなんの関係もない「心の病んだ人」の話と思うかもしれない。しかし、決してそうではない。
愛されることなく、たった1人で生きてきた人は、誰でもネクロフィラスな傾向をもっていると私は思っている。
愛されることなく、たった1人で生きてきた人というのは、山の中で1人で生きてきたということではない。偽りの子煩悩の親に育てられた人は、心の世界ではたった1人で生きている人である。大家族の中で生きていても、心の中ではたった1人で生きている人は多い。みんなから、いいように都合よく利用されて生きた人はそうである。
たとえば、うつ病を生み出しやすい家庭の特徴である。主権的人物を中心に、服従依存の関係が成立している。こうした家で服従依存の中で成長した人は、心の中ではたった1人で生きている。だから、人々が想像するよりもはるかに多くの人が、ネクロフィラスな傾向を強くもっている。
朝ごはんを食べながら、残虐な殺人事件の報道を平然と見てしまう心理
昔、赤軍が軽井沢の山荘に立てこもって機動隊と銃撃戦をした時、日本中の人がテレビの前に釘付けになった。オウム事件を見ても同じである。
朝の情報番組が、なぜあそこまで残虐なことを取り上げなければならないのか。女の遺体が埋められていた現場とか、小さな子どもの遺体がゴミ捨て場に捨てられていたとか、残虐なことが次々と報道される。
そして、それを人々が見る。しかも、「朝」見ているのである。食事をしながら、平気で見ているのである。
この現状を考えれば、フロムのいうネクロフィラスな傾向を、特殊な人々の傾向とはとてもいえない。ネクロフィラスな傾向とは、今の日本で普通に生活している人の傾向であろう。だからこそ、テロリストに対する怒りが日本には少ないのである。
また、私は最近の推理小説ブームというのも、この傾向と関係があるような気がする。フロムによるとネクロフィラスな人は、病気や埋葬や死について語ることが好きな人である。これは、無力な人について語るのが好きということではないだろうか。
つまり、私たちの殺人に対する関心は意外に強い。「あなたも私も善良な市民ですよね。でも人を殺す方法については関心をもつ」というような主旨の推理小説の広告が、地下鉄の中吊り広告に出ていたことがあった。まさに、この通りではなかろうか。
私たちの多くは善良な市民であるが、いや防衛的に善良な市民であるがゆえに、人殺しに関心をもつ。