13人が一堂に会した史実はない

同年6月には、梶原景高(景時の次男)の未亡人の所領を頼家が安堵あんど(土地の所有権を承認、保証)している(同書 正治二年六月二十九日条)。

ちなみに、この年の1月に、梶原景時や景高は、幕府の討伐を受け、敗死している。その景高の妻(未亡人)は、自分への処分がどうなるかと怯えていたが、所領が安堵と決まり、胸を撫で下ろしたようだ。これは単なる所領安堵というよりは、政治絡みの案件と言えるだろう。

「十三人の合議制」といわれることから、13人が一堂に会して、談合したように思うかもしれないが、現在のところ、それを示す史料はない。

実際にあった「合議」の中身

とはいえ、一部のメンバーによる「合議」がなかったわけではもちろんない。

例えば、(頼家は既にこの世にいないが)義時の最大の危機とも言える承久の乱(1221年)の時だ。

同年5月19日、北条政子は御家人たちの前で有名な演説をしている(安達景盛が政子の言葉を代読)。

北条政子(作者=菊池容斎/PD-Japan/Wikimedia Commons

「皆、心を一つにしてよくお聞きなさい。これが今度の最後の命令です。頼朝様の恩は山より高く、海より深いものです。感謝の気持ちは浅いものではないはず。

それなのに、逆臣の告げ口のために、道理の通らない朝廷の命令が出ました。侍としての名誉を守ろうと思う者は、足利秀康や三浦胤義を討ち取って、鎌倉を守りなさい。但し、朝廷側に付きたいと思う者は、今、この場で宣言しなさい」

という有名なものである。

この後、義時の屋敷に北条時房(義時の異母弟)・北条泰時(義時の長男)・大江広元・足利義氏をはじめとする御家人らは、集まり会議が開かれた。

議題は、朝廷軍を関東で迎え討つべきか、それとも上洛して討つかということであった。両論出て、なかなか意見統一できないなか、大江広元が「われらが足柄峠と箱根山の道に関を築き待っていても、長期間となれば、倦んで、それが敗因となるでしょう。運を天に任せ、都に進撃するべきです」という主張をする。

しかし、義時はその段階でも、結論を下していない。京都に進撃すべきか、関東で迎撃するか、2案を携えて、姉の政子のところに向かうのだ。

政子の意見は「上洛しなければ、朝廷軍を破ることはできない」というものだった。それによって、義時は軍勢を上洛させる決意をするのであった。