頼家の権力を奪っていたわけではない
幕府を開いた源頼朝は、建久10年(1199)1月に突如、死去する。頼朝の後継者は、長男の頼家である。頼朝が亡くなった同じ年の4月、『吾妻鏡』(鎌倉時代の後期に編纂された歴史書)には次のような一文が見える。
「訴訟のことについて、頼家が直接、判決を下すことを停止する。今後、大小のことにおいては、北条時政、同義時、広元、康信、親能、義澄、知家、義盛、能員、盛長、遠元、景時、行政らが相談して決めること。そのほかの者は、訴訟のことを容易に頼家に言上してはならない」(『吾妻鏡』の地の文)と。
この文章は、それこそ、冒頭の三谷さんの言葉のように、頼家の権力を剝奪し、13人の有力御家人が合議によって政治を前に進めようとしたものと解釈されてきた。
しかし『吾妻鏡』の文章をよく見てみると、13人以外の者が「訴訟のことを容易に頼家に言上してはならない」とあるように、頼家の訴訟への介入を全否定したものではない。ただ、頼家に訴訟のことを言上できる対象を13人に限ったというだけの話である。
訴訟に直接判断を下す頼家
それを証明するかのように『吾妻鏡』には、この記述以降も、源頼家が訴訟に介入する事例が存在するのだ。
有名な事例でいうと、陸奥国葛岡(現在の宮城県大崎市)にある新熊野神社の境相論(所領の境界を巡る紛争)に頼家が「介入」したことだ。神社の者は、地頭の畠山重忠に判決を下してほしいと要望するが、重忠は「神社に贔屓していると思われる」ということで、自分で判断することはできないとして辞退。
この問題は、三善康信を通して、頼家のもとに持ち込まれた。頼家は、差し出された境界付近の絵図を見ると、急に筆をとり、墨で絵図の真ん中に線を引いてしまう。そして、こう言い放つのだ。
「土地の狭い広いは、その人の運不運だと思い諦めよ。わざわざ使者を出して、現地を調べる必要もない。今後、境界争いは、このように結審する。だから、そのつもりでいよ。それがダメだと思うような者は、裁判を起こさないように」と(『吾妻鏡』正治二年=一二〇〇年五月二十八日条)。
頼家の言動が正しいか否かは別にして、彼は力強く、訴訟に介入している。それどころか、「鎌倉殿の13人」の一人、三善康信が頼家に訴訟を持ち込んでいるのだ。
この事例を見ただけでも「頼家の暴走を防ぐために、13人の家臣たちが集まって、これからは合議制で全てを進めようと取り決めた」わけでもないし、そうした実態があったわけでもないことが窺えよう(13人のなかの誰かが頼家に取り次ぎをしている例は見られるが)。