アパートを蜂の巣にしても絶対に謝らない中国政府
一貫していることがあった。日本の外交官らが住むアパートが無差別乱射を受けても中国側は一切、「申し訳ない」などと謝らなかったことだ。
日本大使館内では、「謝らない」中国側の姿勢に怒りが高まり、大使館員で最も被害を受けた露口は、畠中篤公使が外交部と交渉する際、同席させてもらった。日中国交正常化交渉で通訳を務めた畠中は経済担当公使だったが、総務部長も兼務していた。
「交渉をずっと聞いていて、絶対に謝らないと分かった」
露口はこう実感した。
久保田穣、畠中両公使は、乱射から2日後の6月9日、中国外交部の徐敦信アジア局長と1時間40分にわたり面会した。外交部からは、現在国務委員兼外交部長として中国外交をけん引する王毅・日本課長、大使館側からは総務部二等書記官の片山和之(現ペルー大使)が同席した。建国門外外交公寓1号楼に住む片山の部屋にも12発の弾丸が撃ち込まれた。
銃撃は「戒厳部隊に向けた発砲への対応」と主張する中国
徐敦信は久保田らに対し、事件の状況について、一つは建国門外外交公寓方面から、もう一つは長安街を渡った対面の南にある工事現場から発砲があり、兵士1人が死亡し、3人が負傷したと明かした上で、戒厳部隊の銃撃はこれに対応したものだと説明した。さらに徐は、政府は迅速に措置をとり、外交官アパートから部隊を撤退させたとし、「外国の友人は中国のことに干渉しないよう希望する」と釘を刺した(中島大使発外相宛公電「中国政情[徐・アジア司長との意見交換]」1989年6月9日)。
戒厳部隊に対して複数から発砲があったことへの反撃――。中国政府の主張を信じる西側外交官や特派員は当時から少なかった。
笠原直樹は2019年、筆者のインタビューに「(西側の報道機関が支局を置く)建国門外外交公寓の屋上からメディアの人がカメラで撮っていたでしょ。推測でしかないが、西側のマスコミが次々と報道するので、引き挙げる際に『襲撃を受けた』という理由にして『脅そう』としたのではないか。(カメラ撮影する記者らに対して)あそこから顔を引っ込めさせようとしたんじゃ」と語った。