16発もの銃弾を部屋に撃ち込まれた大使館員も

被害が大きかったのは、広い敷地に十数楼の中層アパートが立ち並ぶ建国門外外交公寓のうち長安街に面した1号楼(9階建て)。後に日本大使館が中国外交部に提出した抗議書に添付された資料によると、館員12人の自宅の窓や壁、天井、カーテン、エアコン、絨毯などが被弾した。

最も被害が大きかったのは、日銀から出向していた露口洋介書記官の7階の部屋で、16発の弾丸が確認された(中島大使発外相宛公電「外交部への申し入れ[館員住宅の被災]」1989年6月16日)

露口は既に大使館に出勤した後だった。自身は独身で妻子はおらず、「阿姨アイ」と呼ばれる中国人の家政婦もバスが動かず出勤していなかったため、幸いなことに部屋には誰もいなかった。露口はインタビューに当時をこう回想する。

「普通に大使館で仕事をしていて朝10時頃、バリバリという音がした。本当に大使館の窓の外で音がしているように聞こえたので、思わず伏せた。しかし何も起こらなかったので、何だったのだろうと思い、夕方帰宅したら家がボロボロだった」

「(外交公寓目がけて乱射された際に)部屋に家族がいた人もいた。他の館員の部屋では子供が窓から、『兵隊さんが走っている』と見ていたら、子供の上をビシッと弾丸が通り、弾痕が付いたと言っていた。うちの部屋には外壁も含めて30発くらい来た。窓にはめ込み式のクーラーがあり、それが撃ち抜かれて火花がパチパチと飛んで壊された。部屋の中の壁は跳弾でえぐれ、崩れた漆喰しっくいが散乱し、絨毯は漆喰だらけで使い物にならなくなった。床には何発か弾丸が落ちていた」

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干していたシャツの心臓部に穴が開いていた

家政婦は、外に洗濯物を干すと黄砂などで汚れるため、部屋の中に紐を吊るして掛けることにしていた。銃弾が撃ち込まれた当日、紺色のポロシャツはちょうど、人間の心臓の高さ辺りに掛けており、その日帰宅したら、ポロシャツの胸付近に弾丸が突き抜け、穴が開いていた。「ここに私が立っていたら死んでいたかもしれない」。露口は、ぞっとした。

その日夜(6月7日夜)、銃弾を受けて壁が穴だらけの外交公寓でいつもとは違う夜を過ごした。

「人民解放軍内部で内紛があり、内戦になるかもしれない」という情報が飛び交う中、すぐ前の建国門陸橋には多くの戦車が円を描くように配備され、外側に砲身を向けていた。「市の外側から攻めてきて撃ちだしたら外交公寓なんて全部吹っ飛ぶな」と館内で話をしていた。

「非常に怖かった。夜寝ている時、『寝たまま死んじゃうんじゃないか』とびびっていた。ガタガタ震えながら寝た記憶がある」。当時を振り返った。