思春期の子供にはスキンシップの代わりに美点を語る
私は母親に言うべき言葉がなかった。介護疲れと言われれば、なるほどと思われるその佇まいに、責めるような言葉は控えなければならない。
今思えば、A君は軽度の発達障害を抱えていたのだと思う。言葉を選ぶことが難しく、人の意志を理解しようとしながら、的確に読み切れない。しかしこれは彼の責任ではない。そのように生まれたことに微塵も自己責任などない。これを見出しフォローするのは親の仕事である。だが、親に甘える機会もなく、親がその稚拙なコミュニケーション能力を苛立ちの対象と見たとき、A君は八方ふさがりになったのだ。
小学校、中学校でも戸惑いの連続だったのだろう。周りのテンポと合わず、コミュニケーション不全がクラスメートの笑いの対象にもなったことが予測される。それは継続的ないじめではなく、ちょっとした悪意に過ぎないが、度重なれば不登校の原因に十分なりうる。
親は子供への愛情の発揮を、まずは愛着行為から出発するべきだ。子供を愛おしいと感じ、その肌に触れるスキンシップは、巷間言われるように実に大切な行為である。
しかしその幼児期のスキンシップは思春期に至ると難しい。子供の身体をべたべた触るわけにはいかない。ゆえにスキンシップの代わりに、親は生き生きとした言葉を子供にかけてやらなければならない。具体的に言えば、子供の個性を見出し、その欠落した部分を愛情をもって指摘する言葉であり、長所を大いに称える言葉である。
しかしA君の家庭環境では、それが置き去りにされていた。ゆえに私は、さらに後日、完成し提出した作品を見分する名目で、再び恵比寿の事務所にA君に来てもらうことにした。
気持ちを代弁してくれる友を持て
私のリクエストどおりA君は1人でやってきた。一通り完成した作文を読んでみると、やはり少なからず欠点が散見された。しかし、学校側はそれでいいということになり、無事卒業し、高校に持ち上がることが内定したと相変わらず抑揚のない話し方でA君は報告してくれた。
私は素直に喜びを伝えた後、改めて彼と向き合い語った。
自分の気持ちを出せないならば、本を読む、マンガを読む、映画を見る、ドラマを見る、絵を見る、立体芸術を見る、このなかのどれかに自分の気持ちに適うもの、それをもってこれが自分だと言えるものを見出しなさい。
高校に入学したならば何か部活に入りなさい。高校に上がったらクラスでも部活でもいい、誰か優しい人と関係を結んで、自分の気持ちを代弁してもらいなさい。必ずそういう人はいる。そもそも今回書いた作品の大半は引用だ。それでもその引用を含めて自分の気持ちに合うならば、それは自己主張に代わる、君の分身とも言えるものだ。同じマンガに笑う、同じ映画、同じ本に感動する。そうした自分の嗜好に合う人が少なくとも1人はいることを信じて行動しなさい。
それができず、学校に行けなくなったら、あるいは本当に困ったことになったら、私にメールをくれるか、直接電話をしてきなさい。相談に乗ろう。そのときも決してキレない、怒らない、叱らない。ただし一つ約束してほしい。私は一度関わった以上は、喜んで協力するが、それは本当に困ったときに限ってのことだ。これは肝に銘じてほしい。
A君は黙って頷き、私が渡した連絡先を受け取った。
短いコミュニケーションのなかで私は、A君は自分の書いたものが気に入っていることがわかった。自分が10枚もの作文を書ききったことが信じられないのだとも見てとれた。1人ではできないが、誰か協力してくれる人がいれば、難解な局面を切り抜けることができる。親が当てにならないならば、高校生になる以上、自分でなんとかしなければならない。学校は、自分の心に適い、自分をわかってくれる人を見出す、唯一にして最適な場である。だからまずは学校には行ったほうがいい。しかしそこに何も見出せなければ、すでに協力者になった私に、相談を寄せればいい。私がA君に伝えたかったことは以上である。
その後、A君から連絡が来ることはなかったが、3年が経過した頃、仲介者から彼が併設の大学に進学したことを聞いた。A君は無事に高校に通うことができたのである。