足元に広がる失禁の水溜まり

日曜日18時のタイムリミットが近づき、原稿は章によってはまとまりきれない部分を持ちながらも完成の目処が立つまでに至った。

ここで、ようやく途絶えた部分をどうつなぐか、章の終わりをどう結びにまで持っていくかという具体的なアドバイスを行った。メモを取りながら神妙にA君は聞いていた。完成させるのは彼で、その瞬間はA君のみが立ち会うべきだと思い、赤を入れず、校正を施して無理に完成させることも避けた。

私は「あとは自分でまとめなさい、下手でも何でもいいから、とにかく完成させて学校に提出しなさい」と告げた。私がA君に聞いたのは、たった一つ、この作品は君の気持ちに適っているか、ということだった。対して彼は肯定の意を示したが、そのとき、ふと足元に、水溜まりが広がっていることに気づいた。それはA君が失禁した跡だった。途中から尿意を催していた彼は、私の話の腰を折ることを恐れて我慢し続け、結果、しくじってしまったのである。

私は、A君の自尊心を損なわないように一緒に雑巾を使い、その水溜まりを処理した。下着を買いに走り、ジャージを貸し、着替えさせ、じっくり話をしてみることにした。

清掃
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私が告げたのは、この「しくじり」と「作文課題の切迫」は同じだ、ということである。自分が追い詰められた状況にありながら放置するという点で共通し、かたや中学生にはそぐわない失敗をし、かたや大人を巻き込んでぎりぎりの綱渡りで事態に対応することになる。

ひとえに自己主張ができないことが原因である。そして、「これはいい機会だ、自己主張を押しとどめて自我を奥底に引っ込めようとしたときには、今日の失敗を思い出しなさい」とも告げた。言うべきときは、はっきり自分の意志を伝えなければならない。

親に愛情はあったが表現していなかった

後日、母親が仲介者に伴われ、挨拶にやってきた。私は彼の失敗を包み隠さず話し、このことについてA君に言及しないことを約束してもらい、なぜA君がここまで自分について語ることができない状況になったのか、心当たりがないか問うてみた。

A君の父親は家庭を省みない人だった。野球観戦が心に残ったのも、それが稀有な出来事だったからである。一方、母親は10年にわたり義父と実母の介護に奔走していた。確かに介護疲れが見て取れるような風情だった。当時なお介護の渦中にあり、気にはなっているが、我が子のことを半ば放置するに甘んじていた。夕食の用意もままならぬ日々だ、と。

恐らくA君は、いい意味でも悪い意味でも優しい子だった。しかし、小学校に入学する前の段階から、親からの愛着を失っていた。親に愛情はある。しかし、スキンシップや愛情のある称賛や叱責をほぼ受けられない状況で、小学校、中学校の期間を過ごしてきた。愛情があり、それを具現化したものが愛着だが、その愛着が欠落しているのだろうと私は感じた。

忙しい母親のことを考え、自分を抑え、大人の思惑を推測し、自己をとにかく埋没させるように心がけてきた。大人の意志を曲げてはいけない、これがA君の信条にもなっているのだろうと思われた。